(5)「愛蘭に起れる事件」のその後
[2010/9/7]

 遺族判明の連絡を受けたロンドンからは、被告のファレル一家が証拠不十分で無罪になったことが知らされ、事情に詳しい担当者が日本へ帰国しているので詳細はその者から聞いてほしいという返事があった。裁判に関する現地の新聞記事の切り抜きと小西の遺産英貨18ポンドに相当する176円33銭の為替証書も添付されてきた。

 外務省通商局は、それを父石田啓蔵に書留で送っている。担当者が帰国中ということも併せて伝えられた。

 啓蔵には遺産についで死亡証明書が送られた。資料の中にその受領書が残っている。おそらく自筆だろう。律儀な性格を思わせる几帳面な筆跡で書かれた受領書には、署名の下に石田啓蔵名の朱印がくっきりと押されている。息子の死をしかと受け止めたという心意気だろうか。日付は大正4年(1915年)1月28日。事件からちょうど1年半がたっていた。

 「函館市史」に石田啓蔵という名前が何度か見える。

 石田荷造が生まれた明治14年(1881年)、いわゆる開拓使官有物払下事件が起きる。地元北海道でも強い反対運動が起き、函館の豪商有志が開拓使の船舶、倉庫の地元への払い下げを求めて請願運動を繰り広げた。その中心人物の一人が石田啓蔵だった。函館区会議員も務めた地元の有力者だ。

 この事件の結果、官に逆らった罪で罰金刑を受け、その後も自由民権派として当局の監視下に置かれている。中等以上の資産をもつ大町の醤油仲買商だという。

 おそらくこの人物が、若き日の父啓蔵なのだろう。