(1) メールごっこ
[2002/06/10]

プラットホームや電車の中で、若者たちはケイタイ・メールに没入している。あの風景は異様だ。そう思っていた私がメールをやり始めた。

春に恒例のクラス会があった。七十歳を過ぎると、みな多かれ少なかれ、体に不都合がおこる。頭の中身にも自信がもてなくなってくる。夫の看病や、九十代の親の介護をしている人たちは、なおのことたいへんだ。

ところで、その中の何人かが携帯電話を持っていた。

夫を亡くしたあと、一人暮しをしている友は、はなれて住む娘に無理やり持たされたのだという。たまたま連絡せずに三日ほど彼女は家を空けた。電話しても応答がないことに不安がつのってきた娘さんは、マンションの管理人にたのみ、ガラス窓を割って安否を確かめてもらった。そんなことがあったせいらしい。

必要にせまられてケイタイを持っているにしても、同じことならメール通信とやらも楽しんでみないか、という話になった。まだ持っていないけれど仲間になるという人も出てきた。

実は私も娘からすすめられていたのである。

「便利である」「それにねぇ、メールは頭を使うからボケ防止になるのよ」

ボケ防止になる?まあなんと魅力的な言葉だろうか。

ともあれ、何人かが、スタートラインに並んだ。しかし散散であった。分厚いマニュアルには機能事項が満載されているが、読めば読むほど頭が痛くなってくる。

まず自分のメールアドレスを作らなければならない。相手のそのややこしいアドレスを、自分のケイタイに登録しなければならない。そのへんからもうできなかった。娘や孫や、買った店の店員さんの助力を仰いだ。

「今、メールを送ったけれど着いた?」わざわざ普通の電話で確認しあった。そのころには、実際、本文のないメールや、意味不明の言葉が送られてきたりした。

しかし今や熟達した。「オハヨウ」「今夜は豆ごはんがおいしく炊けました」そんなメッセージも、かろやかに送られてくる。夫を介護中の人からは「今日もどうにか無事暮れました」と、吐息が伝わってきそうなメールがきたりする。自由に外出できない彼女にとって、このメールがストレスのはけ口になっているのだ。

先日、私は老眼鏡を見失ってしまった。そのことを送信すると「そんなのは当り前。私はそのための予備を三つも持っているのよ」とたちまち返信がきた。なにやら元気がでてきてもう一度家探ししたら、椅子の上のぬいぐるみの下から出てきた。

 

又メールを始めたおかげで、若いメル友がたくさんできたとよろこんでいる友人もいる。クリスチャンで教会活動をしている彼女にはもともと若い知りあいが多い。だがメールを始めてから、その親しみが深まったという。メール会話は、世代間の垣根をとってしまうことになるのだろうか。若者たちの影響を受けて、最近の彼女のメールには、顔絵つきが多くなった。

時には判断に苦しむその顔文字を眺めながら、今の若者の気分に私もちょっぴり触れさせてもらっている。

又別の一人は、新聞の俳句投稿欄で特選をとった。手紙や電話では億劫でも、メールなら気安くつぶやいてみせることができる。彼女がもらしたニュースはたちまちメール仲間に伝わった。喜寿には記念句集を出したいというので、みんな元気でその日を待とうということになっている。

メールは電話とはまるでちがう。相手の声が聞けない。反応をたしかめながら、話をすすめていくことはできない。しかし仕事中でなかろうかとか相手の状態に気をつかわなくてもよい。一方的に発信できる。

私のケイタイは、送信文字数に制限があり、いきおい、電報みたいな簡略文章になる。だがそのサラサラコミュニケーションがおもしろい。てのひらにのる器具を通して、東や西の友人と交信する。どこをどう走っているのやらと、思わず線なき線に思いをはせてしまう。

それにしても、老人の不如意、孤独をいやしてくれる、そして頭の中身の活性化もはかってくれる、これはいいオモチャよねえ――

われわれ仲間は、このケイタイ・メールを大いに楽しんでいるのである。