(8)栗山富郎と村山新治と関川秀雄
[2019/2/9]

先日、著者の方から新刊書をいただいた。
萩野正昭著『これからの本の話をしよう』、晶文社刊、四六判並製、304頁。デザイン=鈴木一誌+下田麻亜也、編集=西浩孝(水平線)。
こうとくれば、衿を正して、読まねばならない。著者の萩野正昭について説明する必要はないだろう。1992年からデジタル出版事業を展開してきたボイジャーの元代表。
文字の多さ、その熱い言葉になんとなく、たじろぐ。実は少し前にその萩野さんから、『ベストセラーはもういらない ニューヨーク生まれ 返品ゼロの出版社』(秦隆司著)も贈呈されたばかり。その連打に、さらにひるむ。
しかし、この『これからの本の話をしよう』(以下、『これからの』と略)は意外に読みやすく、飛ばし読みではあるが、一晩で読破してしまった。それは、栗山富郎とボブ・スタインという二人の人物が、『これからの』の中で実に魅力的に動き回っているからだ。

著者の萩野正昭さんはフリーの映画監督の時代がある。そのことは、『これからの』にもふられている。いまから37、8年前のことだ。私は10年間いた平凡社を辞め、ひとりで百人社(!)という出版社をつくった。当時、桜映画社の社長をしていた父・村山英治がすでに新宿書房を始めていて、その軒下のさらにその下に身を寄せていた。新宿の西口から甲州街道を初台に向うと、左手に文化服装学院があった。ちょうどその反対側にあった小さなビル、杉本ビルに桜映画社の分室があり、ふだんは無人の映画編集室になっていた。そこの道路の窓側に机と電話を置いた。そこが百人社だ。
ある日、大きな声の主が入ってきた。大学卒業以来ひさしぶりに会う萩野正昭だった。なんでも、東映教育映画部で仕事をしてきて、いまはフリーの映画監督という。ここで映画の編集をするという、1992年に桜映画社が出版した『桜映画の仕事1955→1991』によれば、この時、萩野が監督(演出)したのは、タイの保健省が企画した母子保健と家族計画のドキュメンタリー3部作のうちの2作のようだ。萩野はこの2作を含め、1979年から80年まで間に、桜映画では合計4作品の仕事をしている。
最近、伊藤俊也の『幻の「スタヂオ通信」へ』(1978年、れんが書房新社)を再読する機会があった。同書に掲載されている全東映労連の組合活動を眺めると、この時期に萩野さんは東映大泉にいたことになる。

さて、栗山富郎(1923〜2010)さんのことだ。彼は1951年に東映入社し、教育映画部プロデューサー、大泉の東京撮影所プロデューサーを歴任した人である。
「2008年、インターネット・アーカイブと接触する直前のことだった。ボイジャーに一人の年輩者が訪れた。顔を見るとその人は、かつて私が一緒に仕事をしていた映画のプロデューサ、栗山富郎だった。(中略)緑魔子が主演した『非行少女ヨーコ』(降旗康男監督、1966年)とか『組織暴力』(佐藤純彌監督、1967年)とか、実録ヤクザ映画の先駆けのような作品もプロデュースしていた。『旅路』(村山新治監督、1967年)という映画で、原作の平岩弓枝と主演女優の佐久間良子のあいだで生じたちょっとしたトラブルの話なども、お酒がはいると聞かされることがたびたびだった。」(『これからの』、51頁)

この時、ボイジャーに持参した栗山さんの原稿は、2009年1月に『デラシネ――私の昭和史』となって、印刷本も電子本も同時に発売された。本体定価1500円。本の帯に「電子資料館をインターネットに開設」と明記され、電子資料館にURLにアクセスすると、栗山富郎が段ボールいっぱい送ってきたという、パンフレットなどの資料を見ることができる。実は、この『デラシネ』、刊行当初、ボイジャーの萩野さんから贈呈されていたにもかかわらず、散逸して行方不明。あわてて、古本屋で買う。540円。
この紙本、電子本の『デラシネ』を最初の読んだ(見た)時、こんな感想をもった。紙と電子を繋ぐのは面白い。たしかに印刷代は安く済むが、ページという枠の中での「編集」というものが失われ、書籍のもつ、瞬時の一覧性、拡張性がなくなり、その結果、紙本はたんなる映画の脚本や芝居の台本のようなものになる、と。「編集」とは捨てること、原稿を疑い、調べることだ。これがおろそかになりはしないか。この思いは、今回古本屋さんからやってきた『デラシネ』に再会しても、同じである。
『村山新治、上野発五時三五分』(2018年、以下『上野発』と略)に、村山新治(1922〜)の児童劇映画監督デビュー作『わんぱく時代』(56)や『白い粉の恐怖』(60)、『旅路』(67)に当然、栗山富郎さんは登場してくる。しかも『白い粉の恐怖』の原作者の栗山信也さんは栗山さんの実兄だ。
『旅路』では、村山も脚本の田中澄江に対して大いに不満があったようだ。「とにかく、最初はなんでか知らないけど、ホンの評判が悪くて、悪くて。要するに、まったく安手のメロドラマって感じなんだろうなあ。」(『上野発』、329頁)これに対して、佐久間良子の不満は原作者の平岩弓枝に向かったようだ。(『デラシネ』234~236頁)佐久間良子が平岩の家に謝りに行くところは、なかなか読ませる。

『デラシネ』のなかでは、1969年に公開された『超高層のあけぼの』の製作裏話が面白い。68年に完成した霞が関ビルの完成までを描くサクセス群像ドラマである。鹿島がスポンサーになり、東映が全面協力した映画で、栗山の企画した作品だ。当初の脚本は菊島隆三、監督は工藤栄一そして監修は内田吐夢!という陣容が、スケジュールで難航し、最終的には監督は、栗山と東映教育映画部、東映東京撮影所から長い付き合いがある関川秀雄に落ち着く。これは関川秀雄(1908~77)にとって、最後の劇映画となった。その時、関川は言う。「日本映画界のために引き受けんわけにはいかんじゃないか」(『デラシネ』、246頁)原作は菊島隆三、脚本は岩佐氏寿と工藤栄一になった。岩佐は栗山とは、東映教育映画部からの付き合いで、この映画の製作も担当した。キャメラマンは関川とつきあいが長い、仲沢半次郎になる。

村山新治は、今井正、春原政久、山本嘉次郎、小石栄一、佐伯清、小林恒夫などの下で30本を超える劇映画の助監督をつとめたが、関川秀雄(1908~77)もその一人だ。関川はいつも村山の少し前にいる。

関川秀雄は1936年にPCL(後の東宝)の助監督部に入社、すでに28歳だった。黒澤明と同期で、島津保次郎、木村荘十二、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、山本薩夫らに師事する。戦後の東宝争議には最後まで組合側で戦い、49年に東宝を離れる。
1949年、東横映画で『日本戦没学生に手記 きけ、わだつみの声』がクランクイン、翌年公開され、大ヒットし、経営困難な東横映画をうるおし、これが後の「東映」誕生の基礎となる。フリーの監督として記録映画『鉄路に生きる』(52)、『ひろしま』(53)などを撮り、55年に東映との関係が復活。『ふろたき大将』(54)『トランペット少年』(55)『野口英世の少年時代』(56)と、東映教育映画部で次々と児童劇映画の秀作を撮って、同部の基礎づくりに貢献した。ちょうどこの56年は村山新治がここで栗山富郎などに会い、『わんぱく時代』『風の叉三郎』『二宮尊徳の少年時代』を監督した時期だ。村山は関川の背中を見ながら、監督デビューを果たす。それまでに村山は、関川監督作品『黎明八月十五日 終戦秘話』(52)『神風特攻隊員今何処』(製作中止)の助監督としてつく。あの今井正監督の『ひめゆりの塔』(53)が今井演出により、進行が大幅に遅れ、公開日に間にわせるために別班に山本薩夫監督、関川秀雄監督が助っ人として参加した。ふたりはこの映画の企画者の伊藤武郎と東宝争議の仲間である。しかし、今井の演出手法にあわず、ふたりが途中で突然降りるとことになる。この事態のすべてに対応したのが、助監督・監督補佐の村山新治だった。(『上野発』92~94頁)

関川監督との縁はさらに続く。村山新治が劇映画監督デビューしたのは、『警視庁物語 上野発五時三五分』(57)だが、村山は当時、教育映画部での仕事が残っていて、企画の斉藤安代からの要請を断り、代わりに撮ったのが関川秀雄だった。同シリーズの第3作『警視庁物語 追跡七十三時間』((56)と第4作『警視庁物語 白昼魔』(57)の2本撮りである。その後、関川は東映で職人監督として、アクションものを主体に監督を続ける。その間にも村山『東京アンタチャブル』(62)、関川『東京アンタチャブル 脱走』(63)。関川『ひも』(65)、村山『いろ』(65)。ここでも、関川と村山は交差する。

ボイジャーに初めてやって来た時、栗山富郎さんは85歳ということになる。そして、『デラシネ』の刊行の翌年に亡くなった。萩野さんは言う。「栗山富郎さんはまさに遺書のように『デラシネ』を書いたと思います。」(最近もらったメールから)

さて、ボブ・スタイン。これはまた次の時に。2019年8月、「ウッドストック・フェスティバル」は50周年を迎え、記念の野外コンサートが開かれるという。その歴史のなかでボブ・スタインを考えてみたい。