(24)おみごと
[2018/7/13]

 梅雨らしい梅雨もなく、あっという間に本格的な夏がやってきた今年の東京。一方で、西日本では、大雨と洪水、そして土砂崩れによる思いもかけない大被害の連続。いつ何時、どんな災難が降りかかってくるやもしれぬ人生の暗いドラマを、日々見せつけられている。

 山口県美祢市の山奥に暮らす高校のクラスメートMさんに、メールで安否をたずねた。4月末にかの地を訪ねたとき、ご自宅のすぐ前に小さな川が流れていた。家までにかかる橋はコンクリート製だった。以前、この橋が流されたことがあり、頑丈な造りに変わったということだった。幸いにも、問い合わせた時点では大丈夫。しかし、避難袋だけは、しっかり用意しているとの返信だった。

 その他、福岡、久留米、伊万里、倉敷に暮らす親戚や友人たちからも、大丈夫、被害はないとのことで、まずはひと安心した。

 そんな大変なおり、わたしはこれといってなすすべもなく、ただただ時間があれば、相変わらず歩いている。近くの善福寺川緑地公園の川沿いを、日傘をさして、午前中、小一時間歩く。今朝は、橋のたもとで川面をながめながら、ひと休みしているとおぼしき年老いた男性に、声をかけられた。

 「暑いね」 わたし:「はい、暑いですね」
 「それでも、歩かなきゃね」  わたし:「そうですね、やっぱり歩いてしまいますね」
 「毎日、歩くの」  わたし:「いえいえ、時間があるときだけ」
 「だいぶ、お若いね。その歩き方、速いよ」 まさか、わたしだって、老人ですよ。とは、言わなかったが、ほめられて、悪い気はしない。

 ひとりになりたいとき、歩く。神様と会話したいとき、歩く。仕事のなくなった残りの人生、どう生きようか、などとつらつら思いめぐらせたいとき、歩く。そして、川の周囲の自然の風景を楽しみたいとき、歩く。

 ここ数回、続けてカワセミを見かける。それも同じ場所で。さび色をした橋げたの下の部分に、数センチ幅で、鋼鉄製の細い板が渡してある。カワセミは、橋のちょうど真ん中あたりの、この板の上に、ちょこんとすわっている。カワセミは一部分が茶色なので、その他のブルーの羽と黒っぽい長いくちばしを見落とすと、橋げたの色に紛れてしまいかねない。あまりにも小さい体なのだ。

 わたしは、運よく、少なくともここ続けて3回ほど、同じ場所にいるカワセミを偶然見かけた。カワセミは、すわって、首を上下に振りながら、下を流れる川面をじっと眺めている。カワセミの場所から川までの長さ、そう3〜4メートルはありそうだ。今朝は、わたしの目の前で、ひょいとダイビングをしてみせた。上がってくると、くちばしには、銀色に輝く、体長2〜3センチはありそうな、ピチピチとはねる魚をくわえているではないか。なんと、おみごとな。その場で、拍手喝さいである。カワセミは、獲物をしっかりとくわえたまま、どこかへと飛んでいってしまった。

 もうひとつの楽しみは、コガモを引き連れたカモの一家にでくわすこと。コガモは、本当に小さくて、かわいい。4羽のコガモを連れたお母さんカモもいれば、9羽の落ち着きのないコガモたちに、目を配らなければならない大忙しのママもいる。お母さんが、岩の上で日向ぼっこをしていると、コガモたちもいっちょ前に、お母さんの真似をして、岩の上に固まっている。コガモを見かけると、なぜか、ひとは幸せな気分になり、つい笑顔になってしまう。そして、いつまでも見ていたくなる。

 最近わたしは、ウォーキングのあと、まっすぐ家に帰らず、少しばかり寄り道をする。近くの農家さんが開いている野菜の直売所まで、歩き続ける。2軒の農家さんが、それぞれに野菜の自販機を設置しているのだ。トマト、枝豆、きゅうり、ナス、じゃがいも、ズッキーニ、ニンジンなどが、100円から400円ぐらいの値段で売られている。地元の農家で、新鮮な野菜を購入する。東京の生活も捨てたものじゃない。ただし、買い物は必ず百円玉でしか、できないしくみになっているが。


フウセンカズラ