(9)サメ博士
[2015/3/20]

 世界的に著名な魚類学者ユージニ・クラーク博士が、先月25日、92歳で亡くなった。ジニーの愛称で親しまれた博士は、1922年、ニューヨークで、アメリカ人の父親と日本人の母親との間に生まれたアメリカ人女性。そして、わたしが日本語に翻訳し、2003年に新宿書房から出版された『サメ博士ジニーの冒険 - 魚類学者ユジーニ・クラーク』の主人公である。

 母親がマンハッタンにあったスイミング・クラブで水泳のコーチをしていたというから、水との縁は切っても切れない環境のもとに生まれ出た女性ともいえる。小さい頃から、ニューヨーク水族館に通い、また自らも水槽でたくさんの小魚を育て、魚やその他の生き物に対する興味をはぐくんでいったようだ。

 大学では動物学を専攻し、指導教官にも恵まれ、魚類の研究にのめりこんでいく。かたわら、ダイビングを学び、世界中の海中深くもぐった活動的な研究者でもあった。ジニーさんの訃報を知らせてくれたのは、実は日本にいる遠戚にあたる女性で、そのメールには、92歳の誕生日(5月4日)の直前、紅海に浮かべた船上でくつろぐ、水着姿のジニーさんが、にこやかに笑っている写真が添えられていた。おそらく、その時も変わらずダイビングを楽しんでいたと思う。

 世界中の海をめぐり、もぐり、研究を重ね、数多くの論文を発表するかたわら、「ナショナル・ジオグラフィック」誌にも記事を掲載。一般読者向けにも、自伝的内容を含む著作も残した。また、自ら出演し、監修もつとめたサメに関するドキュメンタリー・フィルムで、広く知られるようになり、サメ博士またはシャーク・レディの異名をとるようになった女性だ。それまで、サメの実態については、獰猛で人を襲うという人間側の勝手な思い込み以外、世界でほとんどなにも詳しくは知られていなかった。言ってみれば、元祖おさかな博士といったところか。

 女性としての私生活も、とりわけカラフルだったようだ。多忙で責任ある大学と研究所の仕事をつづけながら、3度の結婚、4人の子供たちを育てたたくましい母親でもあった。だが、実際に会ってみると(かれこれ10年ほど前、一度だけ、日本のご親戚の方たちと、東京のホテルで夕食をともにするチャンスを得た)、大変明るく、解放的な女性の印象をもった。

 しかし、ただの女性でないことは、すぐに判明した。ホテルの部屋までお迎えにいくと、まずはパソコンの画面を映し出し、「これが、今回の収穫」と、魚が泳ぎまわる様を説明される。新種の発見だったか、めずらしい生態の撮影に成功したということだったか、詳細は忘れてしまったが、素人のわたしたちに向かって、熱っぽく解説が続いた。なかなか夕食にまで行きつかないほどの、長い講義だったのを覚えている。

 研究を含め、日本訪問は何度もあり、日本食ももちろん大好きな女性だった。とりわけ、ウナギのかば焼きが大好物だったそうだ。1965年、はじめての日本訪問の際、生物に関心の深い現天皇陛下におみやげとして、コモリザメを1匹進呈したのが縁で、東京に来るたびに、ジニーさんは皇室を訪れていた。まだ皇太子だった今の天皇に、フロリダの海岸でこっそりスキンダイビングの仕方を教えたのもジニーさんだった。

 一生を捧げられる研究対象を持ち続け、それらをわきめもふらず、命の尽きるぎりぎりの時まで情熱的に追いかける。一方で、家庭をもち、子育てを楽しみ、学究仲間や学生たちとの幅広い交流も欠かさない。決して、象牙の塔に暮らした女性なんかではなかった。なんてすばらしい稀有な人生だろう。

 まさに魚にとりつかれた女性だった。魚類学者を指す英語のことばは、ichthyologist(あえてカタカナ表記すれば、イクシオロジストといった感じになるだろう)。この舌をかみそうなことば、正確に発音するのはむずかしい。日本語の本ができあがって間もなく、FM放送局であるJ-WAVEのDJジョン・カビラさんが、ジニーさんにインタヴューをしたことがあった。確か、彼女はニューギニアだかの海上に浮かべた研究船に滞在中で、そこと東京のスタジオを結んでの中継だった。あのバイリンガルで有名なカビラ氏ですら、このichthyologistを発音するのにお困りだった記憶がある。

 パワーフルで一直線な女性の生き方のモデルを示してくれたジニーさん、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとう。


ジニーさん(左)と日本の親戚の女性
2010年東京のレストランで