(12)ピラルクーの鱗
[2009/1/29]

 昨年、70代の母をブラジルへの旅に誘った。長旅になるので、まずハンブルクのアパートに来てもらい、数日休養したのちにサンパウロへ向かうことにした。日本とブラジルの時差は12時間、位置的にちょうど地球の反対側になる。乗り換えも含めると、旅は丸1日たっても終わらない。ヨーロッパは両国のちょうど中間にあたるので、ひと休みにはうってつけだった。

 名古屋にある領事館にパスポートを郵送し、ビザを取得するまではよかったというが、領事館からの情報で、予防接種をしたほうが良いことがわかった。今回の旅では、南部のサンパウロのほか、北東部ピアウイ州のフロリアーノとテレジーナ、マラニョン州のカシアス、そしてブラジリアを回る予定だが、マラニョン州を旅する場合は、黄熱病の予防接種が勧められている。

 私は数年前に黄熱病の予防注射を済ませていた。ハンブルクには熱帯病専門の開業医が何人かいて、当たり前のように予防注射ができる。しかし、母のいる、ハンブルクとほぼ同規模の街、神戸で黄熱病の予防注射を実施しているのは、唯一検疫所だけ。母の話によると、予防接種前に一瞬、死の覚悟をしなければならなかったという。医師に「万が一だが、この予防接種で命を失うケースもある」と言われたのだそうだ。私がドイツで予防接種を受けた時は、誰もそんなことは言わなかったが、もし、私が母の立場で、初めてこの予防接種を受けなければならなかったとしたら、年齢的なことも考えると心穏やかではなかっただろう。


 
テレジーナの博物館にあったピラルクーの鱗

 出発までの煩雑な手続きの一方で、彼女の読書は、まだ見ぬブラジルへの素敵な前奏曲となった。向田邦子の「夜中の薔薇」に収録されている「アマゾン」と、五木寛之の「異国の街角で」内の「灰色の水曜日 Rio de Janeiro」の2つのエッセイが、彼女の旅心を盛り上げた。そして、そのどちらもが、まるで何かの符合のようにピラルクーという魚の、特にその鱗についてふれていたという。ピラルクーは淡水魚の中で、世界最大級と言われ、アマゾン河流域に生息し、ものによっては体長5メートルにも成長するという。非常に古くから存在する魚らしく、「生きた化石」とも呼ばれている。ブラジルでは、このピラルクーの鱗を乾燥させたものを爪のやすりに使うそうだ。

 母が、土産は何もいらないが、五木さんも持ち帰ったというピラルクーの鱗だけは手に入れたいというので、ブラジル滞在中はことあるごとにピラルクーの鱗を話題にしてみた。でも、最初にサンパウロで出会った家族や友人たちは、誰もピラルクーの鱗など知らなかった。美容院やドラッグストアでも尋ねてみたが、それが爪やすりに使えることを知っている人はいなかった。

 
フロリアーノの市場にて カルニ・ド・ソウ(干し肉)

 ある日、日本人街リベルダージを歩き、日伯文化協会内にあるブラジル日本移民資料館に足を運ぶと、展示室のおわりのほうの、ガラスケースの向こうにピラルクの鱗が展示してあった。「ああ、こんなところに!」。鱗はすでに博物館入りしているのだった。

 1980年、五木寛之は、広大なブラジルを未知なる巨大な魚ピラルクーにたとえ、日本に持ち帰った、乾燥したピラルクーの鋼鉄のように固い鱗を手にする時のぞくっとする気持ちを述べている。そして1981年、向田邦子は、アマゾンの、そしてブラジルの大きさと豊かさ、ピラルクーの身の美味しさと、チューリップの花びらほどもある鱗について書いている。2人の作家にとって、ピラルクーは手触りとして、あるいは味覚としての未知なる国、果てしない国ブラジルの象徴になっている。

 
テレジーナの市場にて

 サンパウロの次の目的地は、ピアウイ州のテレジーナとフロリアーノ。その次にマラニョン州のカシアスを訪ね、続いて首都ブラジリア、そして最後にはまたサンパウロに戻るというコースを組んだ。夫の家族を順に訪ねる旅なので、アマゾンは予定にはなく、今回の旅行先でアマゾンに一番近いマラニョン州カシアスからも河口の街ベレンまではバスでまる1日かかる。夫はベレンの街とピラルクーという魚のことは知っているが、鱗のことまでは知らなかった。彼の家族も、誰も知らなかった。

 でもピラルクーとその鱗には、テレジーナの郷土博物館でもういちど出会った。入るつもりのなかった博物館には、ある日、ぽっかり時間が余ったので訪れたのだが、2階に上ると、壁にまるで鯉のぼりのような大きな魚の乾いた皮がぶらさがっていた。その干物のような抜け殻は、私たちの身長よりも大きかった。手前のガラスのショウケースには、3枚の鱗が宝物のように展示してあった。説明には、この鱗を爪磨ぎに使うとあった。でもその固い鱗に触ることはできなかった。

 ピラルクーの鱗を手に入れるには、やはりアマゾンにまで足を伸ばさなければならないのだろう。ブラジルという巨大な国の、まだほんのわずかしか知らない私たち。もう10回近くこの国に通っている私にとっても、ここはまだ未知の国と言わざるを得ない。アマゾンにまで辿り着けるのはいつだろう。私はまだ、サンパウロと、南部のワイン地方、そして一部の北東部の街で右往左往しているだけだ。

 

テレジーナの市場にて、キアボ(オクラ)、マシシ(ミニキュウリ)、ヴィナグ、レイラ(葉野菜)など

 ピラルクーの鱗さがしを別にすると、母の初めてのブラジル旅行は極めて快調だった。私は母と一緒にブラジルの片隅を歩くことで、この国の別の姿を発見したような気がする。サンパウロの街中で、地下鉄に乗り込むたび、母を見て、複数の男性が、素早く席を譲ろうとまるで競うように立ち上がってくれたこと。訪れたどの家庭でも、一番年上の母の意見が一番大切にされたこと。テレジーナの叔父の家で過ごした日々、母がメイドのアンェリーナがつくる、タピオカのパンケーキ、ベイジューや、とうもろこしの粗びき粉を蒸したクスクイスをとても気に入り、彼女とかたことの会話を楽しみながら、毎朝のよう日本の餅や餅米に近い食感を楽しんだこと。ピアウイ州で最も美しいと言われる、フロリアーノでのカーニバルで、女装した男たちの集団に囲まれ、みなが母と一緒に記念写真撮ろうと集まって来たこと・・・。数々の小さな出会いは、彼女にとってかけがえのない思い出となったに違いない。「一番面白かったのは人間だった」という彼女の意見にはまったく同感だ。

 帰国が近づいたある日、私たちはサンパウロの友人宅にいた。友人の義理の姉、ひふみさんは日系二世。彼女はほんの少し日本語を話すだけで、自称100%ブラジレイラだ。でも彼女は「あめふり」や「あんたがたどこさ」、「鳩ぽっぽ」にはじまり「花」や「海」に至るまで、日本の古い唱歌を沢山知っていた。彼女がまだ幼かった頃、両親が毎日のように歌っていたので暗記してしまったそうだ。母とひふみさんは、一緒に歌うことで心を通わせた。そのひふみさんにピラルクーの話をしたら、何年か前、アマゾンに行った時、ピラルクーの鱗を買って大切に持っているから、今度会う時にさしあげると約束してくれた。

 
フロリアーノの市場へ至る道で

 母が帰国して、しばらくしてから、開高健の『オーパ!』という本を、偶然にも知り合いからもらった。開高健が釣り人として主にアマゾンを旅した60日の記録で、書かれたのは1978年だ。ブラジル、そしてアマゾンの雄大さには、ただ「オーパ!」とポルトガル語で感嘆詞を吐き続けるしかないという彼。だからタイトルは『オーパ!』。この本には、ピラルクーのことがとても詳しく書いてあった。乾燥させた鱗についても、漁師はそれで銛を磨き、大工は家具を磨き、美容師は爪を磨くと書いてある。ピラルクーの舌を乾燥させたものは、おろし金として使えるそうだ。1億年もの間、同じ姿のままで生き延びてきたというピラルクー、開高さんは現地でピラルクー漁に立ち会い、滋味たっぷりのピラルクーの肉を内臓にいたるまで味わっている。

 同著には、ブラジル人であっても、死ぬまでにアマゾンへ行くという人はたったの1、2割だそうだ、と書いてある。夫は死ぬまでに一度アマゾンを船で旅したいという。私に、そして母に、はたしてアマゾンへ行く勇気が持てる日は来るだろうか。

 
開高さんも食べた泥ガニ