(10)セルタオン 白い森
[2007/3/20]
 民俗学的におおまかに分類すると、ブラジルには3つの文化圏がある、と言われる。最も良く知られているのが北部のアマゾン、次が南部のガウショ、そして、3つ目が北東部(ノルデスチ)のセルタオンだ。この3つの文化圏は、それぞれ、とても同じ国の文化とは思えないほどかけ離れている。

 私がブラジルで最初に出会ったのは、セルタオン文化圏だった。セルタオンは、広さおよそ80万平方キロメートル、日本が2つすっぽり入ってしまう広大な灼熱の乾燥地帯である。有棘低木やサボテンなどが混在するので、カーティンガ(有棘植生地帯)とも呼ばれている。

 以前は、サンパウロやリオ・デ・ジャネイロを経由し、乗り換え時間も含め、ほぼ1日がかりで北東部に通っていたため、セルタオンはとてつもなく遠い場所に思えた。でも、昨年初めて、リスボンからセアラ州の州都フォルタレザへの直行便を利用した時は、これまで遠く感じられたノルデスチの玄関口に、たったの7時間で着いてしまい、少し混乱してしまった。

 ブラジルに行くたび、ドイツの友人たちにこう言われる。「毎日ビーチ? うらやましいな」と。ブラジルの一般的イメージは、アマゾンでもガウショでもセルタオンでもなく、いまだビーチが支配的だ。確かに、大西洋岸の街で過ごすと、友人たちの描くブラジルのイメージも間違いではないな、と思う。フォルタレザは、ビーチと心地よい風を求めて、多くの人々が移り住み、あっという間に高層住宅が林立する250万人都市となった。

 潮風の街、とでも名付けたくなるフォルタレザだが、面白いのは、フォルタレザの人たちがビーチを背に、内陸へと車を走らせる時、「セルタオンに向かう」と言うことだ。まだ都心にいるのに、セルタオンという言葉が彼らの口から自然に出てくる。故郷の名前がつい口をついてくるのだろうか。

 私の知っているセルタオンは、セアラ州、ピアウイ州、マラニョン州、バイーア州、そしてペルナンブコ州の、それぞれの内陸部のほんのひとかけらずつだ。でも、セルタオンはアマゾン州の手前や、ミナス・ジェライス州の北部にまで広がっている。年間降水量はたったの250ミリ。だからセルタオンの植物は、少量の水分で生きのびていけるよう、突然変異を繰り返し、葉は落ち、棘に守られるようになった。遠目には、枯木林のように見える有棘低木林だが、その枯木たちは生きていて、「白い森」と呼ばれている。植物相は意外なことに豊かなのである。

 「黒い森」の国、ドイツから、一挙にこの「白い森」へやってくると、そのコントラストはあまりにも強烈だ。濡れた密林もなく、椰子の林立するビーチもなく、ただ乾いた白い大地が延々と続いているだけ……。セルタオンは、私の想像力が全く及ばなかった土地だ。
 
セルタオン風景
 この白い大地は、牛によって切り開かれた。もともと、さとうきび畑の動力源として飼育されるようになった牛だが、牧草地が、さとうきび畑を奪ってしまうというわけで、セルタオン外路、セルタオン内路という2つの街道が開かれ、奥地で放牧が行われるようになったのである。しかし、有力者たちが移り住むようになると、本来のセルタオンの住人たちの居場所は奪われた。彼らは奴隷となるか、土地を逃れるか、有力者の私兵になるしかなかった。18世紀のことだ。

 そして19世紀末、セルタオンは繰り返し、厳しい旱魃に襲われた。生活の糧を失った人たちは、ゴムやコーヒー景気に沸く他所の地に移住するか、盗賊団(カンガッソ)や秘境的集団に加わるしかなかった。

 そんな旱魃にあえぐセルタオンに、ロビンフッドのようなヒーローが現れた。ヴィルグリーノ・フェヘイラ・ダ・シウヴァ、通称ランピアォンだ。彼は、最も長期に渡って活動した盗賊団の首領だった。ランピアォンたちの活動は、単なる盗掠ではなく、大土地所有者への反乱だった。ランピアォンの盗賊団は、100人ものメンバーを擁した時代もあり、20世紀前半、ブラジル北東部を荒らし回り、奪った現金や食料を、飢えにあえぐ人たちに分配したという。ランピアォンの英雄譚は、今も詩や歌のかたちで語り継がれている。ランピアォンはセルタオンの象徴的存在だ。

 象徴的存在と言えば、過酷な気候に適応したアザ・ブランカという鳥もそうだ。直訳すると白い翼、という意味、英語ではピカズロ・ピジョン、日本語ではアカメバトと訳されている。私は、まだアザ・ブランカを見たことがないが、「アザ・ブランカ」(1947)という曲は、数えきれないほど聴いた。

 ランピアォンとも接触があったというルイス・ゴンザーガが、ウンベルト・テイシェイラと共同で作ったこの歌は、ドミンギーニョス、ジルベルト・ジル、エリス・ヘジーナ、カエターノ・ヴェローゾ、ファグネルをはじめ、数えきれない歌い手たちによってレコーディングされている、ブラジルのもうひとつの「国歌」と言えるかもしれない。

 詩の中で、セルタオンの人は、天の神に向かい、僕たちが一体どんな過ちを犯したがゆえに、この過酷な天候に耐えなければならないのか、と問いかけている。持てる家畜は死に絶え、適応しているはずのアザ・ブランカさえ、この土地を去っていく。そのようにセルタオンの人も、この土地を去っていく。しかし、いつか恵みの雨がもたらされるならば、またセルタオンに帰りたい……。

 過酷な自然に耐えきれず、セルタオンからは多くの労働者がリオとサンパウロに流れた。彼らの多くが、「止まり木」と呼ばれる、荷台に簡単な木のベンチを取り付けただけのトラックで長く辛い旅をした。都会で成功した人もいるが、大多数は、不景気のあおりを受けたり、まるで外国人労働者でもあるかのような差別を受け、豊かになれなかった。そのなれの果てのひとつの姿がファヴェーラだ。

 ファヴェーラが、独自の文化の宝庫であるのも、そのバックグラウンドであるノルデスチが、そしてセルタオンが、力強い文化を持っているからだろう。そして、セルタオンの文化が、なかなか発見されないでいるのは、そのほとんどが「口承されるもの」であるからかもしれない。例えば、セルタオンは、独自の音楽形式やパフォーマンスの手法を持った、語り聴かせる民衆詩の宝庫なのである。

 即興詩を抑揚をつけて語るヘペンチスタの数は減ってしまったそうだが、過去の有名な民衆詩やその他の詩を暗記し、ヘペンチスタの如く語るポエトリー・パフォーマンスは健在だし、民衆詩を、絵葉書の大きさの藁半紙に印刷し、ホッチキスで綴じた、10ページそこそこの簡単な冊子、「リテラトウーラ・ジ・コルデル」は、今でもあちこちで販売されている。19世紀半ばに誕生したというこの小冊子は、売店で、袋入りの駄菓子のように、紐にぶらさげて販売されていたため、「コルデル(紐)」の名がついた。
 
 
コルデル
 今日のブラジル最高のヘペンチスタと言われるイヴァニウド・ヴィラ=ノヴァと、詩人、作家、そして作曲家でもあるブラウリオ・タヴァレスが共同で作った「ノルデスチ・インデペンデンチ(ノルデスチの独立)」という歌を、エルバ・ハマーリョが熱唱しているCDを、友人のところで聞いたことがある。即興詩的特色が非常によく出ている、より語りに近い歌だ。

 先日、そのことを思い出して、歌詞をインターネットで探してみた。ノルデスチがブラジルから独立したらどうなるかを歌っているのだが、その詩のシンプルで力強いこと! 3節目には、レシーフェが工業地帯に、国語はノルデスチ方言に、国旗はセアラ産レース、国歌は「アザ・ブランカ」(!)、ランピアォンは不滅のヒーロー、などと歌われ、4節目には、ブラジルは、ノルデスチから、木綿やさとうきびやパイナップルや塩を輸入しなければならなくなる……、とある。

 終わりのほうでは、南部に差別されてきたノルデスチの人たちの、穏やかな抵抗の声が聞こえる。もし、誰かが、ブラジルから(!)やってきたら、ノルデスチーノたちは、いつだってパンをわけあい、食事と暖かいベッドを用意し、友人として手厚くもてなす……、というのだ。

 ブラジルでは、経済的に豊かな南部の方に、独立論者が多いという。南部だけで富を独占しようという考えだ。この歌は、そんな南部の人々に対する、ノルデスチの人たちのひとつの「回答」なのだろう。

 私は、白い森の底知れぬ文化の入口に、たどり着いたばかりだ。