(9)ジュアゼイロのジョアン・ジルベルト
[2006/12/25]
 2004年の夏、ピアウイ州テレジーナの友人夫婦宅にしばらく滞在していた時、彼らの持っていたジョアン・ジルベルトのCDを毎日、繰り返し聴いていた。1曲目、トム・ジョビンの「Eu sei que vou te amar(あなたを愛してしまう)」の後で、ジョアンの「Adoro Sao Paulo, Sao Paulo my love(サンパウロが大好きだよ。サンパウロ・マイ・ラヴ)」というささやき声が、街頭の騒音とともに聞こえてくる、あのCDだ。

 1994年にサンパウロで収録されたもので、臨場感があり、歌声がとてもノッていて、声とギターの微妙な「時間差」には、彼が、数えきれないほど繰り返し歌うことで磨かれた格調の高さが感じられる。一言で言ってしまえば、たまらなく粋でかっこいい。2004年の夏の思い出と、このCDは、私の中で一体となっている。

 その夏、セルタオンにあるワインの醸造所を取材するため、テレジーナから、長距離バスで12時間かけて、ペルナンブコ州のペトロリーナに行った。冷房設備はなかったが、防犯やメンテナンスには細心の注意を払っている、とても安心できるバスで、窓から入る心地よい風を受けながら、ピアウイ州を南端まで突っ走った。ペルナンブコに近づくと、道がどんどん悪くなり、バスは大きくゆれはじめ、ガーナを旅した時の記憶がよみがえった。

 セルタオン。ブラジル内陸の荒れ地のことを人はこう呼ぶ。巨大な乾燥地帯で、草木はからからに乾き、黄金色をしている。バスは土埃を舞い上げて進み、遠くに小さな砂塵の竜巻きが見えたりする。私が、セルタオンの風景を、思う存分眺めることができたのは、このバスの旅が初めてだった。

 とても歩けるような場所ではないが、セルタオンの光景は心を打つ。赤茶けた何もないこの光景を眺めることで、かえって心は満される。無限の大海や砂漠を見渡す時に味わう、あの言葉のない充実感と同じだ。
 
セルタオンの風景
 しかし、無限に思えたセルタオンも、サンフランシスコ川に近づくにつれ、徐々に途切れはじめ、緑の木々が現れるようになる。そして、区画された青々とした畑が見え始める。サンフランシスコ川流域は、川の水を存分に灌漑に利用でき、しかも、1年中夏という気候ゆえに、農閑期のない巨大な農地となっている。ぶどうからマンゴーにいたるまで、ヨーロッパで出回っている南国の果物の多くが、ここで生産されている。

 取材も終わり、半日時間がぽっかりあいたとき、同行してくれた夫(当時はまだ、恋人だったけど)が、「対岸に行かない?」と言い出した。サンフランシスコ川を隔てた対岸には、ジュアゼイロという街があり、そこはもうお隣りのバイーア州だ。「ジュアゼイロには何があるの?」「きみの好きなジョアン・ジルベルトの生家があるはずだから、探しにいこうよ」

 ジョアン・ジルベルトの歌声の醸し出す都会的な香りと、セルタオンの果てのオアシスのようなこの内陸の地とが、最初はぱっと結びつかなかった。

 ペトロリーナ側から、ジュアゼイロの町並みが見える。川幅は1キロあるかないか、といったところ。橋はとても長く、だいぶ老朽化しているようだ。人が一人が通れるほどの狭い舗道を、一列になってこわごわ歩いた。欄干が低く、危なっかしいので、橋の中央までたどり着いた時、急に怖くなったが、もう後にはひけない。後は、進行方向だけをみつめて、渡り切った。
 
サンフランシスコ川
 しかし、どうやってジョアン・ジルベルトの家をみつけたらいいのだろう? 市街地には、ツーリスト・インフォメーションも見当たらない。そこで、いきあたりばったりに、通りをゆく人たちにたずねてみた。そのうちの一人が、「ジョアン・ジルベルト文化センター」の場所を教えてくれた。そこなら、彼の生家を教えてくれるのではないか、という。

 「ジョアン・ジルベルト文化センター」で、スタッフの人に、生家のある場所を教えてもらうことができた。ジョアン・ジルベルトが18歳頃まで過ごしたという家は、街の中心の落ち着いた広場の一角にあった。
 
ジョアン・ジルベルト文化センターのウインドウ
 イマクラーダ・コンセイサォン(聖母の無原罪の御宿り)広場、20番地。

 空色に塗られた、美しい家の玄関脇のプレートにはこう書いてある。

 この家で、音楽家ジョアン・ジルベルトは、
 MPBの美に貢献するボサ・ノヴァを創造した。
 ジュアゼイロ市役所、1991年11月文化月間。
 ジョアン・ジルベルトの60歳の誕生日とボサ・ノヴァ誕生34周年を祝って。
 市長 ジョゼフ・バンデイラ

 14歳でギターを手にし、ギターこそが彼の命となる。彼の音楽家人生は、この家で始まったのだった。18歳になると、歌手を目指し、バイーアの州都サルバドールに出て、その後、リオ・デ・ジャネイロに向かった。彼の父親は、息子の音楽への興味を好ましく思っていなかったという。彼は、どのような気持ちでこの家を出て行ったのだろう。

 この家は、数年前にバイーヤ州政府が買い取り、文化財として保存しつつ、EBDA(バイーア州農業開発機関)の地方事務所として使用している。

 私たちは、どうしても、家の中を見たくて、扉があいているのをいいことに、「こんにちは」といいながら、中に入って行った。そして、オフィスにおられた男性にお願いすると、快く中を案内してくださった。彼の名前はジョアンさんだった。

 風通しのよい、居心地のよさそうな家で、とてもきれいに使われている。小さな中庭からはバイーアの青空が見えた。

 セルタオンと、バイーアの片隅を知って、ジョアン・ジルベルトの歌とギターに流れるバイーアの遺伝子を思うようになった。永遠に波打ち続けるギターと、弾む水滴のような彼の歌声の奥深いところに、セルタオンの人らしい内気さと、勤勉さと、秘められた情熱を感じるようなった。

 文化センターの人の話によると、ジョアン・ジルベルトは、時々、ひっそりとジュアゼイロを訪れることがあるそうだが、本当にひっそりと帰ってくるので、街の話題にもならないという。でも、彼が、時おり故郷に顔を出していることを知って、嬉しく思った。人はその土地に、よほどの愛着がないと、こんな遠くまで戻ってこないものだから。
 
ジョアン・ジルベルトの家
 
玄関右側のプレート
 帰りは、夕陽を浴びながら、渡し船でペトロリーナに戻った。この旅は、セルタオンの灌漑設備の整ったワイン畑を見るのが目的だったので、こんな素敵な午後を過ごすことができるとは思わなかった。

 ところで、ブラジルでどうしても見つからなかったこのCDが、この年の年末、実家のある神戸に戻った時に、三宮のセンター街であまりにも簡単に見つかってしまったことには驚いた。そして、バイアーノの彼の歌声とギターが、地球の反対側の日本で、とても愛されていることを知った。