(34)第9回 シネマ・ポスト・ユーゴ
[2018/7/20]

今年(2018年6月)第9回となる「シネマ・ポスト・ユーゴ」は城西大学、東京大学、東洋大学の3大学で行なわれた。

外から見たバルカン

 初めての試みとして、旧ユーゴ地区出身以外の監督が当地で制作した作品を城西大学で上映した。『どこでもない、ここしかない (No Where, Now Here)』(2018、マレーシア、日本、マケドニア、スロヴェニア製作)のリム・カーワイ(林家威)監督は、大阪に住む中国系マレーシア人監督。本作は、彼がバルカンを旅して出会った人々をキャストとして制作した。スロヴェニアでゲスト・ハウスやアパートを経営するトルコ系マケドニア人フェルディがあまりに女好きなので、愛想をつかして故郷に帰ってしまった妻ヌルダン。彼女を追ってマケドニアに赴く夫フェルディの姿を追う。
 バルカン史専攻の柴宜弘・城西国際大学教授が旧ユーゴ地区の地図を出席者のために用意し、フェルディが住むスロヴェニアのリュブリャナ、彼が旅の途中に寄るクロアチアのトルコ系住民が住むセニ、故郷マケドニアのゴスティヴァルを示した。バルカン研究が半世紀になろうとする柴教授も、旧ユーゴ地区のトルコ系住民については本作を見るまで知らなかったことが多いという。
 5世紀にわたりバルカンを支配していたオスマン・トルコの時代から住みついているトルコ系の人々は、現在ではかつての支配者への反感からくる差別を受けながらも、商店を経営したりして経済的能力を発揮している。フェルディはリュブリャナでスロヴェニア語を話しながら手広く不動産や旅行を扱う仕事をし、様々な人種の客とは英語で会話をする。妻や故郷のトルコ系の人たちとはトルコ語で、それ以外の故郷の人たちとはマケドニア語で話している。またアシスタントの女性はスロヴェニア人だが、セルビア人助手とはセルビア語で会話している。かつてのユーゴの公用語であるスロヴェニア語、セルビア語、マケドニア語はそれほどお互いに違うものではないにしても、商売のための語学に長けているのであろうと私は思った。しかし多言語環境で育ったフェルディなので、語学に長けていてその結果商売もできるということであろうと見方もあった。彼はリュブリャナでロマ(ジプシー)を安く使い、マケドニアではアルバニア系の石工たちを雇う。こうしてバルカンでの人種的住み分けが映画の中で垣間見られる。またアルバニア系の石工が出ている場面では、KUBOTAという日本の建設機械が画面に大きく見えている。
 上映に立ち会ったリム監督はバックパック旅行が好きで、シベリアからヨーロッパに入ってバルカンへ行った。リュブリャナでフェルディのゲスト・ハウスに泊まり、彼と一緒に遊びに行くようになり、この人は面白いし、そこに立っているだけで「絵になる」と確信。最初、彼の仕事や生活を追うドキュメンタリーを製作しようと思ったが、それは実現せずセミ・ドキュメンタリー的劇映画になった。
 この映画では何を描きたかったのかという柴教授からの質問に、リム監督はフェルディとヌルダンの男女の関係だという。ヌルダンは実際にはとても大人しく従順な女性で、映画の中にあるようにフェルディと口論することはないし、外出もしない。リム監督がゴスティヴァルへ行ったときには、ムルリムの女性たちは外出しないので街に女性がいないのが奇妙に感じたそうだ。そして、政治には余り関心を示さず、家族のために働く旧ユーゴのトルコ系の人々と、自分の出自であるマレーシアの華僑との間に共通点を見たそうだ。
 リム監督がどのように映画作家になったか、そして映画作りを志す若者に、助言して欲しいという観客からのコメントがあった。それに答えて、リム監督は当初大阪大学工学部に留学し、ITの会社で働くも、自分の仕事が好きになれなかったと言う。日本のビザ獲得のために数年働いたが、そこを辞め、北京の映画大学へ行ったが半年でそこも辞めてしまった。自分は既に5本長編を作っているが、本作は自分のほかキャメラマンと録音だけの小さなスタッフなので、大規模な商業映画に比べれば、とても自由に作っているとのことだ。
 先月バルカン観光の旅に行ったという観客は、アドリア海沿岸など景色がよくて観光地として大いに日本人にもアピールするだろうという感想を述べた。
 最近の若い日本の監督の作品は台詞が多くて、言葉で説明しようとする傾向が多いが、リム監督は反対に映像でものを語る作家である。本作の最初のシーンで、マケドニアの湖のほとりのカフェの窓際に座るヌルダンの後ろ姿に、椅子を一つ一つ移動しながら近づくフェルディをやはり後ろから捉え、この二人の表情を観客に想像させる。映画の最後にリュブリャナの橋に佇む二人の姿をやはり後ろ姿で示し、こうして二人の物理的、心理的距離が台詞ではなく映像で表現される。
 音楽クレジットの中にUfoslavia というグループがあったが、これはリム監督がインターネットで見つけたそうだ。UFOとYugoslavia の掛詞(かけことば)である。また音楽の渡邊崇は昨年日本で公開された石井裕也監督の『夜空は最高密度の青色だ』と永井聡監督の『帝一の國』で評判になったが、リム監督の前作『愛在深秋』でも音楽も担当している。

戦乱の中の良心

 セルビア出身のスルジャン・ゴルボヴィチ監督『波紋(Krugovi/Circles)』 (2013年、セルビア、ドイツ、フランス、クロアチア、スロヴェニア製作)は、 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争中の1993年、ボスニアでムスリムの店員に暴行を加えていたセルビア人兵士たちを、止めようとした別のセルビア人兵士が代わりに殺されたという実話に基づく映画である。12年後、この事件に関わった人々の運命が再び交錯する様を、被害者の父、被害者の親友、被害者に助けられたムスリムの3人のエピソードで描く。本作は東京大学文学部の「旧ソ連・東欧の映像と文学」のコースの一環として上映され、バルカン史の専門家で東京外国語大学や東京大学の非常勤講師、山崎信一先生が解説を、司会は私、平野が務めた。
 「ボスニア・ムスリム」「セルビア人」「クロアチア人」が主として暮らす多民族地域ボスニアでは、長い間ボスニア言語を共有し歴史的に共存してきた。その三者が互いに戦うボスニア紛争では、10万人以上が犠牲となり、映画の舞台となったボスニア南東部の小都市トレビニェでは、紛争によって、セルビア人と比べてボスニア・ムスリムの多くがその地を去ったという統計資料を、山崎先生は示した。
 山崎先生は現実の事件とドラマ化された映画のストーリーの違いも解説した。同胞に殺されたセルビア兵、スルジャン・アレクシッチ(1966−1993)は映画ではマルコという名前になり、助けられたムスリムのアレンはその後スウェーデンに移住したが、映画ではハリスという名前でドイツに移住する。実際の加害者兵士は4名で、1名は戦死、3名は28ヶ月の禁固刑を課せられた。映画の中では3名となり、そのうち裁判で後悔の意を示したラキタという兵士ひとりが戦死し、その息子ボグダンはマルコの父ランコがひとり山頂の教会の再建の作業をしているのを手伝うことになるが、この部分はフィクションであろう。また罪の意識をいまだに示さない加害者の元兵士トドールが、交通事故で重傷を負い、運ばれた病院の医師がマルコの親友ネボイシャで、彼は親友を殺害したトドールに対する憎しみと、患者を助ける医師としての義務との相克に悩むというエピソードもフィクションのようだ。
 一方ハリスは看護士のドイツ女性と結婚して二人の娘と平和な暮らしを営み、大手自動車会社BMWで働いている。そこへある日、マルコの婚約者だったナダが幼い息子を連れて助けを求めに来る。マルコの死後ドイツに渡り、そこで出会い結婚したセルビア人の夫の暴力から逃れて来たのだ。ハリスは自分や家族を犠牲にしてもナダとその息子を助ける決心をする。この部分もフィクションと思われる。
 アレクシッチの父は「自らの人間としての責務を果たして命を落とした」と息子を偲ぶ。2000年代後半以降、アレクシッチの勇気ある行動を讃えて、旧ユーゴのいくつかの都市では彼の名前を冠した通りもあると山崎先生が話された。映画の中でネボイシャが加害者トドールに患者として出会ったことを悩み、ベオグラードからマルコの父ランコに会いに行く。ランコは「池に石を投げると輪が広がって行く。でも息子が死んだことで何か起こったのだろうか?」と彼に向かって絶望的に嘆く。これが映画の題名『波紋』となっている。
 私も映画を見ていてわからなかったことがあるので、上映後まず山崎先生に質問した。ナダの夫がボスニアで指名手配されているのでボスニアには入れないため、最後にナダは息子を連れて故郷ボスニアにバスで向かう。なぜ夫が指名手配されているのかということだ。山崎先生は、台詞にはないが多分夫はマフィアで、訛りからいうとモンテネグロ人だとのこと。そこで私は東京銀座の宝石店を2度にわたって襲撃して逮捕されたメンバーもいる国際的窃盗団ピンク・パンサーにはモンテネグロ人やセルビア人が多いことを思い出した。
 またトレビニェでムスリムの店員ハリスは、兵士から求められた「ドリナ」という煙草が売り切れと言ったために、激昂したトドール一味に店から引きずり出されて路上で暴行を受けることになるのだが、ドリナとは人気のある銘柄なのかという質問を私はした。ドリナはフィルターがない煙草で、そのドリナとはセルビア、ボスニアを流れる川の名前であるとの答えだった。旧ユーゴでは誰もが「ドリナ」と言えばノーベル文学賞を受けたイヴォ・アンドリッチの『ドリナの橋』(1945)を思い起こすであろう。
 観客からは、この地域での民族の違いについての質問があった。山崎先生の説明では、人種も言葉も似ていて外から見ただけではわからなくて、違いはそれぞれが信じる宗教である。名前を聞けば例えばマルコはキリスト教の名前、ハリスはムスリムの名前なのでそれで分かることもあるという。
 なぜ山頂にランコが教会を建てるのかという質問に、息子の追憶、魂の救済といった象徴的なこともあるだろうが、台詞によれば古い教会が土地再開発で取り壊され、その材料を使って新しい場所で作っていることになっている。また若者がそれを手伝いたいという設定は、若者の仕事がないという社会問題が背景にあるという。他にも家庭内暴力の問題や医者が賄賂を受け取ることが多いというこの地域の社会的問題がこの映画の背景として描かれているという指摘を山崎先生はなさった。
 なぜナダの息子はパスポートを持っていないのかという質問に、山崎先生は単に機会を失って申請していなかった、あるいは申請をすればナダの不法滞在が当局にしれてしまうのでしていない、息子のパスポートはあるが夫のところにしまいこまれているなどの可能性を述べた。またIDを見せろと兵士がハリスに要求するが、それは普通のことなのかという質問に対して、市民にID所持は求められているが、トレビニェのような小さい町では住民はお互いに顔見知りであるだろうし、現実に持ち歩かない人もいるだろう。元来IDのチェックは警察の仕事であり、映画の中でトドールたち3人は休暇中の兵士でそんな権限はないだろうが、彼らは機関銃を持っているからIDを求められたら従う他ないと山崎先生は解釈した。
 確かに映画の中でマルコもハリスもトドールもお互いの名前を呼びあっていたし、平和な時代だったら問題にもならなかったような、煙草を切らしているという些細なことが、暴力沙汰となり、殺人にまで至ってしまうことは、いろいろなことを考えされられる。父のところから出かける休暇中のマルコが煙草をテーブルに忘れて父がそれを追ったが間に合わなくて、マルコは売店でハリスから残り少ないドリナを買う。その後に来たトドールたちが事件を起こすのだが、ドイツでハリスはよく煙草を吸って緊張をほぐそうとしている。こうして煙草は要所要所で登場する。
 ハリスはBMWで働いているのは移民として成功しているという設定のようだが、実際の仕事は工場で部品を組み立てるブルーカラーのもので、やはり移民がホワイトカラーの仕事に就くのは難しいのかという質問に、山崎さんはハリスが住んでいるのはドイツでは労働者用団地でやはりブルーカラーであり、対比的にベオグラードの医者であるネボイシャはエリートの住いである高級高層住宅に住んでいることを映像的に見せていることを指摘した。
 音楽は現地のものが使われているのかという質問に、山崎先生はクレジットを見るとマリオ・シュナイダーというドイツ系の名前の人が音楽担当だが、使われているのはバルカン音楽そのものではない、例えば日本でも人気の高いエミール・クストリッツァ監督の『アンダーグランド』(1995)の音楽は現地のジプシー音楽などが使われているとの答え。私は時々短調のアラブ風の感じがする音楽が出てきて、外国人が見たムスリム的音楽という感じなのかと思った。
 また映画の聴覚面でいうと、本作では沈黙の役割が大きいことを私は指摘した。登場人物が一人で黙って座っているシーンや、二人で向き合いながら喋っていないシーンが多いのだ。例えばネボイシャがアパートで一人食事をする場面が不自然なほど繰り返される。それは一人暮らしの彼が医師としてするべきことを思索する場面なのだが、なぜか自宅の一人の食事で表現されている。すると東京大学の平野恵美子先生が、ネボイシャは、それまではお湯をかけたり電子レンジに入れたりするインスタント食品をさっと座って食べているが、3回目はインスタント商品かもしれないが何かをガス台で温め、テーブル・セティングもして、きちんと座って食べていて、その時に重大な決心をするという指摘をされた。
 またナダの夫の脅威にさらされるハリスは、外に出れば自分の両側を見て歩き始め、建物に入るときにも周囲を確認する。彼が感じているナダの夫に対する恐怖は、ハリスや彼の家族を遠景から捕らえるショットが誰の視点かわからないことで、常に誰かに見張られていると感じさせる効果を出している。
 セルビア人の友人によると、セルビア人が自分を犠牲にしてムスリムを助けたり、仇を許して和解を求める登場人物が出て来る本作は、ボスニアでは好評だがセルビアでは賛否両論で、国粋主義者たちにとっては受け入れ難い映画だそうだ。

ヒューマニズムを貫いた女性の悲劇

 東洋大学では『アンゲラ・ヴォデ:隠された歴史の発見 (Angela Vode – Skriti spomin/Discovery of the Hidden Memory of Angela Vode)』(2009年)を上映した。本作はスロヴェニアTV製作のドラマで、マヤ・ヴァイス監督はスロヴェニアを代表する女性監督で、ヴォデについてのドキュメンタリー短編も製作している。
 教育者・フェミニズム作家・人権問題活動家であったアンゲラ・ヴォデ(1892−1985)の生涯は、ユーゴスラビア共産党からもスロヴェニア人民解放戦線からも追放され、投獄され社会の表舞台からの抹殺される悲劇であった。その功績が再評価されたのは1990年代になってからで、本作は彼女の知られざる先駆的仕事に焦点を当てたものである。上述の柴先生とアンドレイ・べケッシュ先生(リュブリャナ大学教授)が上映前にヴォデの生涯とその仕事を紹介した。精神障害者教育の教師であったヴォデは第二次世界大戦前の創立間もない時期にユーゴ共産党に入党したものの、ヒトラーと独ソ不可侵条約を締結したスターリンに失望して共産党を去り、個人の立場で捕虜の家族の支援などヒューマニズムに基づく活動を行なっていた。第二次世界大戦中は、反独活動の容疑でナチス軍により逮捕されて政治犯の強制収容所に入れられていたが、看護士だった姉の知り合いの独軍将校のおかげで数カ月後に釈放された。これが戦後、ヴォデが敵に通じたのではないかという政府の疑いの元になる。
 戦後、教職に戻ったヴォデは、他のリベラルなインテリたちとともに秘密警察に逮捕され、裁判で西側へのスパイ活動を行なったという罪で20年禁固と労働を言い渡される。彼女は刑務所でも主義主張を変えず、仲間の女囚たちを励まし続けた。国際情勢の変化もあり6年後に彼女は釈放されるが、市民権を剥奪されたので働いたり年金を受け取ることができず、姉が彼女の生活を支えた。1980年代後半に彼女の仕事が見直されて、雑誌にインタビューが掲載されて人々はヴォデのことを知るようになった。
 とはいえ、司会を務めたスロヴェニア出身のイェリサヴァ・ドヴォルシェク=セスナ先生(学習院大学非常勤講師)も、この日上映会に参加していた東京在住のスロヴェニア人たちも、ヴォデのことは知らなかったという。
 上映後、スカイプによるマヤ・ヴァイス監督との質疑応答が行われた。なぜ刑務所の場面が多いのかという観客からの質問に、ヴォデは女囚が置かれている状況について、最初に記録を発表した人だからだと監督。
 映画の基になった本についての質問に監督は、ヴォデは戦後も論文が発表できなかったが、自分の戦中の強制収容所体験や戦後スロヴェニアの刑務所の体験を密かに書き続けたと言う。1982年にヴォデの最初のインタビューがラジオで放送され、女性の権利についての先駆者的活動を評価した若い世代の女性たちが、彼女のインタビューを始めた。それが雑誌に掲載され、1985年の彼女の死後、2004年にジャーナリストでこの映画の共同脚本家のアレンカ・プハルの手によってヴォデの自伝が刊行されたそうだ。
 ヴォデを演ずる女優が素晴らしかったので、私はそれについて質問した。その女優、シルヴァ・チュシンは舞台女優でもあり、プハルが本作の企画を持ってきた時に既にキャストされていたが、監督もヴォデを演ずるのは彼女以外ないと思っていたそうだ。
 本作は字幕も多いので外国人にとって分かりにくい部分もあった。しかし、どの組織でも自分の信念に忠実で妥協しない人は、組織と軋轢を起こすというテーマは普遍的なものである。柴先生は、当初ヴォデが共産党に入党したのも、共産主義に共鳴したというよりは、自分が目指すヒューマニズムの活動を達成する目的の手段として選んだのはないかと述べた。彼女の障害児教育や個人レベルでの人権運動に興味を持ったという観客も多く、この部分をもう少し映画で見せてくれればと思えた。