(2)華の都の聖母――パリのノートル・ダム大聖堂【パリ】
[2005/2/7]

 今回からしばらくは、ぶらぶら猫のイル・ド・フランス散歩はユネスコ世界遺産の旅となる。ユネスコ世界遺産の登録基準や経緯についてはまったくの疑問なしとは言えないが、イル・ド・フランス周辺の地にそれだけの価値あるゴシック大聖堂が多く点在することは素直に認めてよいであろう。

12世紀にサン・ドニの地に産声をあげたゴシック様式が、すぐ南隣の大都市パリの大聖堂に採用されるまでに、そう時間のかからなかったことは容易に想像できる。サン・ドニ大聖堂の献堂式で、その堂々たる建築を目の当たりにしたイル・ド・フランス周辺の各町の司教たちは、すぐさまゴシック大聖堂の建築にとりかかり、サンリス、サンス、ノワイヨン、ランといった町に次々と新しい大聖堂が建設された。そしてパリでは、時のパリ司教モーリス・ド・シュリーの決定により、1163年から工事が開始され、大体の輪郭が整うのは約200年後の事である。

パリ
パリ市 Paris
人口2,125,851人(1999年)

初期ゴシック様式の傑作
一般にはゴシック大聖堂の代表と思われているパリのノートル・ダム大聖堂だが、その後に続くシャルトルやランスやアミアンといった完成された古典ゴシックの傑作たちとは区別され、初期ゴシック様式に入れられている。素人目にはゴシックの典型に見えるパリのノートル・ダムにはロマネスク様式の名残りがまだ色濃く残っており、いわば過渡期の建築だと言うのだ。その点を作家ヴィクトル・ユゴーは『ノートル・ダム・ド・パリ』の中で次のように述べている。

「パリのノートル・ダム大聖堂は、完成された、はっきりとした様式に分類されるような建築物ではない。それはもはやロマネスクの教会ではなく、かといって、まだゴシックの教会でもない」(拙訳)

ユゴーが言うロマネスク様式の名残りとは、たとえば天井のリヴ・ヴォールトが正方形の柱間単位を六分割した形でかけられていることであるとか、立面が下からアーケード、トリビューン、トリフォリウム、クリアストーリー(高窓)の四層構造となっていることなどがあげられる。シャルトル以後の古典ゴシックではリヴ・ヴォールトの柱間単位が長方形の四分割式に変わり、立面も壁面支持のために必要だったトリビューンがフライング・バットレス(飛梁)の発達によって不要になり、アーケード、トリフォリウム、クリアストーリーの三層構造となって、ずっとすっきりとしたものになった(以下の図を参照)。そう言われてパリのノートル・ダム大聖堂の内部に立って壁面を見上げると、垂直に伸びるクリアストーリーの大ステンドグラスを通して光の入るシャルトルやランスなどの大聖堂と比べて、壁面が大きくてロマネスク的な暗さを感じさせるのは確かだ。

とは言えサンスやノワイヨンといった他の初期ゴシックの大聖堂は身廊の高さが二五メートル程度であったのに対し、さすがは大都市パリの大聖堂だけあって、パリのノートル・ダム大聖堂は高さ三五メートルと、続く古典ゴシック大聖堂の高さ競争の口火を切るような堂々たる高さを誇った。

パリのノートル・ダム大聖堂俯瞰(ふかん)図と身廊立面図(左下)、身廊断面図(右下)


パリのノートル・ダム大聖堂(初期ゴシック)とシャルトルのノートル・ダム大聖堂(古典ゴシック)の比較
壁面がパリは四層なのに対して、シャルトルは三層。天井のリヴ・ヴォールトがパリは正方形の六分割なのに対して、シャルトルは長方形の四分割。


聖母マリアの教会
ロマネスクとゴシックの中間的建築であるとユゴーに評されたパリのノートル・ダムだが、パリの中心シテ島の東南端に建つこの大聖堂は、おそらく世界で一番有名なゴシック大聖堂であろう。ゴシック大聖堂と言えばまずパリのノートル・ダムが思い浮かばれるし、ノートル・ダムと言えばパリのそれである。ちなみに次回以降に紹介するシャルトル、ランス、アミアンの大聖堂も聖母マリアに捧げたノートル・ダム大聖堂であり、聖母との関わりから言えばマリアの衣といわれる聖遺物を有するシャルトル大聖堂などの方が強いのであるが、一般にはノートル・ダムと言えばセーヌ河から見た美しい教会を思い浮かべるのは、ぶらぶら猫だけに限ったことではあるまい。

それにしても「ノートル・ダム」とはなんと美しい響きではないか? ノートル・ダムとはもちろん聖母マリアのことだが、直訳すれば「我らが女性」。パリの中心にあって、パリ市民を暖かく見下ろしてきた大聖堂が女性のものなのだ。
キリスト教がこれだけ世界に広まることができたのは、聖母マリアのおかげだろう。髭もじゃのおっさんだけじゃ、世界中の人々の心をとらえることはできなかったに違いない。スペインなどにおけるマリア信仰は熱狂的で、官能的でさえあるらしいが、正統的な教えからは異端とされることもあるマリア信仰が実はキリスト教の神髄であるなどと乱暴なことを言ったら、敬虔なクリスチャンからお叱りを受けるだろうか?

パリのヒロイン
女神志向と言おうか、ヒロイン志向と言おうか。パリやフランスには女性が活躍したり、シンボリックな存在として崇められていることが多い。451年にパリ市民を鼓舞、勇気づけて、フン人の攻撃からパリを守ったサント(聖女)・ジュヌヴィエーヴや、100年戦争でイギリスと戦ったあの救国の聖女ジャンヌ・ダルクがいるし、共和国のシンボルはマリアンヌという女性像である。かつての100フラン札に描かれていたドラクロワの『民衆を導く自由の女神』やフランスからアメリカへの贈り物である自由の女神像など、フランスでは女性ヒロインの例は枚挙にいとまがない。ちなみにフランス語の名詞には男性形と女性形があるが、フランスもパリもセーヌ河も皆、女性である。


ノートル・ダム大聖堂──東南側(トゥルネル河岸より)


ノートル・ダム大聖堂──西側正面(シテ通りより)

ノートル・ダム大聖堂──北側(マシヨン通りより)

パリの中心
パリ以外の地方都市の大聖堂は、その街の真ん中に、まさに街の家々を従えるように聳え立っている。大都会パリには、エッフェル塔やモンパルナス・タワーのようなモニュメンタルな大建築もあるし、サクレ・クール聖堂やパンテオンのように大きな教会建築も幾つもあるので、さすがにノートル・ダム大聖堂は他の建築に埋もれがちで、パリの街を圧倒するような威圧感はない。それがパリのノートル・ダムの、力強さよりも優しさを、ゴシック建築の特徴である天をついて聳え立つ垂直性よりも全体としての調和を感じさせる理由にもなっていると思う。

とはいえ、シテ島はパリ発祥の地である。紀元前3世紀にケルト人の一派パリシイ人がシテ島に住みついて、パリの前身であるリュテスという街を築いて以来、この島はパリの中心であり、ここから同心円を描くようにして広がっていた華の都のへそにあたる地に、ノートル・ダムは立っているのである。今でこそ西のシャンゼリゼ大通り界隈やオペラ座界隈、東のバスティーユ界隈など、どこがパリの中心かわからないほど賑やかな街があるが、歴史的にはシテ島こそパリの中心であり、東京の皇居にあたる場所だ。現在のノートル・ダム大聖堂がたっている地には、2000年以上前から寺院があったのだと聞けば、その古さに驚かされるであろう。

ローマ時代の寺院に始まり、キリスト教初期のバシリカ式教会堂やロマネスク様式の教会を経て、先にも述べたように1163年に現在のゴシック大聖堂の建設が開始される。パリにキリスト教が入るのは、前回サン・ドニの回で紹介した初代パリ司教のサン・ドニが布教に訪れる三世紀中頃だとされ、キリスト教信者のコミュニティーがパリの中にも形成されていったようだ。そしてクローヴィス(466~511年)がメロヴィング朝を開いてパリを首都と定めた頃、シテ島にノートル・ダム大聖堂の前身ともいえるサン・テティエンヌ教会がつくられた。サン・テティエンヌ教会はノートル・ダムの西側、現在は広場となっているあたりにあったらしいことが広場の発掘などによってわかっている。サン・テティエンヌ教会以前にも第9代パリ司教(436年死亡)の名を冠した教会があったという説もあるが定かではない。

イル・ド・フランスを歩く
自然や郷土色が豊かで、見所のたくさんあるフランスという国において、パリから電車で片道わずか1時間足らずで行ける範囲にも魅力的な街や村が数多く存在する。ヴェルサイユやフォンテーヌ・ブローといった歴史にその名を留める有名な観光地から、バルビゾンやオーヴェル・シュル・オワーズ、ポントワーズなどといった近代に活躍した絵描きたちにゆかりの村まで、パリを一通り歩いた後には是非周ってみたい魅力的なスポットに満ち溢れている。こうしたイル・ド・フランスを歩く楽しみのひとつに、今回ぶらぶら猫が歩いたようなゴシック大聖堂めぐりというのもある。


楕円形のパリを中心に大きくぐるりと取り巻くイル・ド・フランス地方は、「フランスの島」の名のとおり、フランス最初の王朝カペー朝を輩出したフランス発祥の地だ。かつては一つの州名だったイル・ド・フランスは、革命後、いくつかの県に分割され、現在はパリ市をはじめ、セーヌ・サン・ドニ、イヴリーヌなど合計8つの県から構成される。面積はフランス全土の2.1パーセントの1万2012平方キロメートル、人口は全人口の18パーセントにあたる約1100万人が住む、フランスの政治、経済、文化の中心である。


セーヌ河を中心に、オアーズ川、マルヌ川などの支流が流れる肥沃な沖積層が広がり、小麦やとうもろこしの生産など農業も盛んである。セーヌ河の水系は通商路として重要な役割を果たし、パリをはじめとする各都市発展の条件となった。


1000万人以上が暮らす大都市圏でありながら、パリから列車でほんの30分も離れれば豊かな緑の田園地帯が広がる。なだらかな丘の緑の彼方に教会を中心に家々が立ち並ぶ、「絵になる風景」が幾つもあり、絵心のある人や写真の好きな人ならたまらないであろう。それにしてもヨーロッパの田舎の美しさには、日本の田舎の風景の醜悪さに「なぜ?」と問わずにはいられない。日本の自然が悪いのではない。日本の自然もヨーロッパに負けず劣らず美しい。ただ、そこに加わる「人工物」が見事に調和を欠き、自然の美しさをぶち壊してしまっているのだ。


なおここでお断りしておくが、次回以降に取り上げるシャルトルやランス、アミアンなどの諸都市はイル・ド・フランス地方には含まれないが、パリから電車で1時間前後で行ける範囲にある一連の重要なゴシック大聖堂を有する都市ということで、「ぶらぶら猫のイル・ド・フランス散歩」のタイトルの中で扱うこととした。

イル・ド・フランス地方とその周辺の大聖堂(赤字はこのコラムで紹介するもの)