(7)エンサイクロぺディストの志と実行を支えたもの(その2)
中森蒔人と図書月販「ほるぷ」
[2012/8/25]

 中森蒔人さんは、東京武蔵境で父親がはじめた中森書店の子として生れた。戦争中に旧制二高(仙台)から東京工業大学の航空機学科にすすみ、敗戦後、東京大学法学部入りなおした。南原繁さんを尊敬していたので、そのもとで政治学をまなび、第一回の上級国家公務員試験に合格した。こうしてエリート官僚の入口に立っていた彼が、1950年に停学処分を受ける羽目になった。レッドパージと単独講和に反対する学生集会を無届けで強行し、その責任を問われたのである。

 今後の日本が国連中心の全面講和で行くか、ソ連、中国などが不参加のままに単独講和で行くかという争点が、保守派をふくめて国論を二分していた。朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは極東戦略を転換し、中ソに対抗するため日本の再軍備化に舵を切ったから、全面講和か単独講和かという問題は、日本の軍事化か平和憲法の維持かという選択にもなり、全学連をはじめ学生たちの多くは戦争と再軍備に敏感に反応した。

 そのとき東大総長であった南原繁さんは全面講和論を説き、吉田茂首相がこれに対して、「南原総長らが主張する全面講和は[曲学阿世の徒]の空論で、永世中立は意味がない」と非難した。南原さんはレッドパージにも反対であった。

 1968年、ほるぷ創立5周年記念式典に招かれた南原繁さんが、「新しい人間像と国家像」という講演のなかでこのときの事情を語っていて、その文章が、創立8周年を迎えたとき、中森さんが幹部社員に語った記録『ほるぷの意義』という小冊子にあわせ採録されている。

「赤い教授追放、大学教授で共産党に関係のある者は教授たる資格がない、したがって大学から追放すべきであるというのが(占領軍)総司令部の意向でありましたが、私ども大学の方針としては、そういう総司令部の方針に反対でありました。教授が一人の国民としていずれの政党に属しようともそれは自由である。教授としての責任を全うする限り、どの政党に属しようとも欠陥の条件にはならないという態度を私どもは声明したのであります」

 しかし南原さんは学生の無届け集会や授業放棄(ストライキ)については、これを処罰し、中森さんは停学になったのである。

「大学ではこれら(レッドパージと単独講和)の問題に対して学生が関心をもち、それらを研究討議し、意見を発表することに自由を認めております。けれども、ただし条件がある。それはどこまでも学生運動であるがゆえに、学生の義務を放棄するようなことをしてはいけない。すなわち授業を放棄してはいけない。また集会をするときは無届けであってはいけないといった学則がございます。だからと申しまして、こんにちの一部学生の運動と違いまして、そのために大学の建物とか器物のひとつでもこわすわけではない。またいささかの暴力がおこなわれたわけでもございません。けれども大学の秩序は秩序として守らなければなりません。したがって、その指導的役割をつとめた学生に対しては責任を問うというのが、この時の大学の方針でございました」

 停学処分になる前、中森さんは第一回上級職国家公務員試験に合格していたが、性に合わないのでエリート官僚の道にすすまなかったと、じぶんでは書いている。しかし停学処分ということも影響していたであろう。「一生田舎教師」のつもりで、徳島県立小松島高校の教師として赴任するが、そこにも南原繁さんの存在があったようである。徳島県の教育長から相談を受けた南原さんは、中森さんをそこに推薦したのである。

 彼は1923年生まれだというから、わたしより5歳年上であるが、東京大学に再入学しているから、大学生活の時期はそれほど違わない。同じように学生運動をしていたわたしにも、危うく停学処分になりかけた事件があった。

 1950年10月、全学連の一斉ストライキの呼びかけに応じて、名古屋大学経済学部学生自治会は、単独講和反対の抗議ストライキを決議したが、その当日、校舎の壁にOld solders never die, but young ones must dieという大きな文字が出現した。「老兵は死なず消え去るのみ」というマッカーサー将軍のセリフをもじって、反戦学生同盟の仲間が、「老兵は死なず、若者が死んでいくのみ」と、朝鮮戦争と再軍備化に反対する意志を表明したのだった。ボール紙を切りぬいておいて、夜のうちに青ペンキで塗り書きしたのである。

 その壁文字は、桜山電停から正面に見える位置だったから、乗降客の目をひき、地元新聞もとりあげた。これが校舎を汚損する無届けの落書きとして教授会で問題になり、その責任者として自治委員長のわたしも停学にすべきだという意見があったらしい。

 処分を主張する強硬派はJ助教授であったという。しかし彼が、壁文字にyoung onesのoneを複数にして書いたのをとりあげ、「学生があんなひどい文法ミスをして、市民に発表するのは大学の恥さらしだ」と口走ったものだから、すかさず水田洋先生がこの助教授に注意した。「そんな間違った知識を公表すると、笑われるのは、あなたですよ」

 わたしは幸運であった。このあおりで処分問題も見送りになったらしい。ただし当時この話は知らなかった。内幕を知ったのは後年、水田さんの自伝的著書『ある精神の軌跡』(東洋経済新報社、1978年)を読んだときである。

 その翌年、下中邦彦社長の代行で京都の研究者の挨拶まわりをしていたとき――編集局長が社長と同行または代行して、弥三郎社長時代からお世話になった京都の学者に挨拶まわりに伺うというのが、平凡社の慣習だったらしいが――湯川秀樹さんのお宅でこの事件がふたたび話題になった。

 話を持ちだしたのは息子さんの湯川春洋さんで、対面そうそう、「あなたのことは、お会いする前から存じあげていますよ」という。怪訝な顔をするわたしに、春洋さんは手にしていた水田さんの『ある精神の軌跡』を差し出され、それから両親のところに行って、その本のわたしのことが書いてある頁を示された。

 湯川さんとの会見は会議室のようなテーブルが並んでいる広い洋間を使われた。わたしが出されたお茶の前に座ると、その対角あたりのコーナーをはさむように湯川夫妻が座られた。春洋さんはそこから離れて、入口のドアに近い席を占めた。こういう離れ離れの位置取りは、何となく皇族とお話しをするようだなと思ったけれど、もちろんそんな経験があるわけはない。わたしは意外な成り行きに閉口したが、湯川夫妻は驚いた風もなく、平凡社や下中記念財団の話題に入っていかれた。

 中森さんの話にもどそう。彼が四国で高校教師をしているあいだ、父親の中森泰三さんがはじめた家業の中森書店は、義兄が受け継いでいたが、その義兄が急死したので、東京に帰って引き継ぐことになった直後の1961年、中森蒔人さんは株式会社「図書月販」を設立し、64年「ほるぷ」と改称した。これは大ベストセラーとなった『国民百科事典』(1961〰62年)の出版とかさなっている。

 つまり中森さんは『国民百科事典』、ついで『世界大百科事典』の販売によって、一書店の外商から、全国的な図書月販組織にまで事業を育てあげたのである。学校へ、事業所へ、さらに一般家庭へと、彼が「良書」と信ずるものを普及することは、彼の信念にも似た商売、あるいは商売をつうじての信念でもあったといえる。前に引用した『ほるぷの意義』という小冊子には、その事業の「四つの意義」がかかげられている。

第一 HOLPに依って、全国家庭に徹底的に良書を普及する。

第二 出版界を革新し良心的出版関係者を勇気づけ、良書の制作普及を促進する。

第三 児童文学館の建設、近代文学館、学校施設への百科の贈呈等により、陽の当らぬ場所への良書の普及を目指す。

第四 働く者への生活と権利を保証し、さらに広く社会進歩の影響力を行使できる集団をつくる。

 そして中森さんはその各項について具体的な構想を述べ、目指すべき出版、販売、編集の姿を語り、従業員の労働分配率にまでふれている。下中弥三郎さんは何回も破産しているが、中森蒔人さんの「ほるぷ」ものちに日販の資本管理下に入り、やがて破産する。そうした販売でのゴタゴタやきびしい金融事情に足をとられ、その泥沼にまみれながら、それでも彼らはすすんだ。

 ここに繰り広げられる、彼ら終生の「純真な夢想の糸」(林達夫)を、わたしたちは誇大妄想と笑うことはできないだろう。彼らの夢が現実的でないと笑うだけでは、わたしたちの現実が失ってしまった夢を忘れることになる。エンサイクロペディストの志は、販売や金融や経営の現実を離れては実現しないが、あの時代まで出版という仕事は、そういう志を活かすことができる事業、少なくともそう期待することができる事業であったのだ。


2005年7月29日 スイス・クライネシャイデッケ
写真=大木茂