(4)架空伝承人名事典はなぜ生まれたか?(その2)
[2012/6/28]

 1985年3月6日、読売新聞夕刊に山本夏彦さんの「百科事典を疑う」という文章が掲載された。加藤周一編集長による新百科事典、『大百科事典』がようやく完結、6月28日に最終セットが発売される直前だった。 山本さんはこんな風に書いている。

私は平凡社の『世界大百科事典』全32巻(昭和30年版)を持っている。持ってはいるが使っていない。はじめ使ったらその項目がないこと三つ四つたて続けだったから以後使う気を失ったのである。そのことを何度か書いたが、まとめていわせてもらうと「木口小平」がなかった。木口小平は同じ社の戦前版には出ていたからわざと削ったのである。同じ料簡で連合艦隊をはじめ、軍艦長門、陸奥を削ったのである。教育勅語の項目はある。けれどもそこには教育勅語がいかに教育を害したかが書いてあるだけで、かんじんな教育勅語は出てこないのである。

 これは6年前の、山本さんの著書『ダメの人』(文芸春秋1979年)所載の「木口小平」という文章とほぼ同内容であった。この本の「あとがき」によると、雑誌『諸君!』に連載した「笑わぬまでもなし」から選んだとあり、初出年月日は出ていないから、「木口小平」がいつ雑誌に発表されたのか、はっきりしないが、『世界大百科事典』編集長、林達夫さんはそのとき病床についていた。

 編集局長室の課長だったわたしは、月に一度、見舞いをかねて鵠沼に行っていた。『諸君!』の山本さんの文章を見せて、反論する必要があるのではないかというと、「こんな与太話、相手にしなくていいよ」と林さんは答えた。批評に敏感な林さんとしては異例な反応だった。わたしは林さんの了解のもとに自分が書くつもりだったが、林さんは、口述筆記の申し出と勘違いされたのかもしれない。そして、そんな労をとるのが、もう、わずらわしくなっていたのかもしれない。

 新聞に出た再度の批判には、林編集長に対する言葉が新たに付け加えられていた。

編集長は、あの名高い林達夫である。林達夫は当時も今も一世の尊敬を集めた人である。この人は名前だけの責任者ではなく、文字通りの責任者で、酒席で雑談しているときでも、洩れていた一項目を得ると、とびあがってメモしたほどだったといまだに語り草になっている。それなのにこの編集である。軍艦長門や陸奥を載せたって軍国主義にもどるわけではない。私はこれほどの人物がどうしてこんな編集方針を立てたか理解しかねるのである。

 林さんにはよくメモをとる癖があったが、それは構想のキーワードにふれたようなときで、百科事典の一項目に「とびあがってメモした」わけではない。また、こんなことが、ほんとうに語り草になっていたのか、身近なものはかえって知らない。しかし、こういう風にさらりと語るところが、ゴシップ風文章の綴り方なのであろう。

 林達夫さんはこの前年の4月25日に亡くなられていた。わたしは編集局を去って、営業局長をへて社長室長をつとめていたが、新しく売り出す百科事典の暗影をはらうためにも、ふたたび自分が反論を書こうと思った。

 その前に新百科事典編集長の加藤さんには伝えておくべきだと思い、山本さんの疑問に対するわたしの疑問点を話したところ、加藤さんは、自分がその役を買って出ようといわれた。「林さんが編集長として引き合いに出されているのだから、こんどは新編集長の私が受けて立ちましょう」

 それが翌週3月12日の読売新聞夕刊に掲載された、「百科事典の使い方」(『加藤周一著作集』第16巻に収録)である。

山本夏彦氏の「百科事典を疑う」という文章(読売新聞夕刊、1985・3・6)を読んで、私はそこに事実の誤りが多いばかりでなく、山本氏が百科事典の使い方を知らないらしいということにおどろいた。今その誤りを正し、併せて事典の使い方を説明したいと思う。「百科事典を疑う」理由として山本氏が挙げているのは、平凡社の『世界大百科事典』に「軍艦長門・陸奥」「鑑札」「木口小平」がないこと、「教育勅語」の項目はあるが、その全文を載せていないということである。事実は、問題の百科事典に、「陸奥」の項目があり、その写真を掲げ、半ページに及ぶ記述があって、「長門」が同型艦であることを明記する。「鑑札」という項目も、短いが、たしかにある。山本氏はみずから「持っている」という事典をろくにみていない」

 加藤さんは例によって問題の正面から反論を切り出し、こんな問題にも全身的に論争をはじめている。あまり真正面なので、かえって諧謔的にも聞こえる。そして、平凡社はいま新しい『大百科事典』16巻を刊行中で、そのなかには「木口小平」の項目があり、教育勅語の全文が載っていると付け加え、30年前の事典をみて、今日の事典をみないのは「百科事典を疑う」人の怠慢にすぎないときめつけた。

 また、山本さんは辞書と百科事典を混同している、彼には、めざす項目がその場所にみあたらなかったら、必ず索引にあたってみる習慣がないらしい。その習慣がないことは、辞書と百科事典を区別しないことであり、百科事典の使い方を知らないことである。すぐれた百科事典は個別的な知識とともに、個別的な事項のあいだの関係を明らかにするものであるから、とつづけている。

 山本さんが「百科事典を疑う」ことを説き、加藤さんが「百科事典の使い方」を説いているので、わたしは「百科事典の作り方」と「批評の仕方」についても述べたいと思うが、その前に、山本さんの言うように、百科事典を疑うことは、ぜひ必要であると言っておきたい。ただし山本さんのようにではなく、手続きをふんで疑うことが大切であるが。

 インターネットの無料百科事典『ウィキペディア』は、投稿記事の偏りや信頼性に問題はあるが、みずから記述の「未完成」」を言っているところがいい。

 物に書かれていることや、流布されている言葉は、まず疑ってかかることが大切で、そのうえで考え、述べるところに「自分」というものが生れるのだ。

 前回述べたように、第一次『世界大百科事典』の人名項目の構成は、スタート時、いろいろ弱点をもっていた。人名項目についていえば、専門領域周辺や底辺の人物が見落とされがちで、戦争英雄ばかりでなく、犯罪英雄や市井の噂の主人公たちも、項目からとり残されがちだった。「木口小平」はその一コマだったのである。百科事典を批評しようと思えば、その全体構造について見なければならない。でないと、イデオロギー的偏向を指摘するかのような脱イデオロギー的批評が、また一つのイデオロギー批評になる。

 加藤編集長の『大百科事典』はこの反省のうえに設計されている。そういった仕事を編集者の個人的な好みや努力に終わらせないで、より組織的に解決するため、伝承的人物を採択する検討が進められていたのである。『大百科事典』完結の1年後に刊行された『日本架空伝承人名事典』の基礎には、この編集方針があった。

 だからこの新百科事典には、「木口小平」のほか「肉弾三勇士」も項目になっているし、日露戦争の軍神、広瀬武夫や橘周太大隊長もとりあげている。「軍神」という項目もあって、ギリシア、ローマ、中国、日本古代から書きおこし、近代日本におよんでいる。筆者は大江志乃夫さんである。その批判的な記述は、またしても山本さんの気に入らないかもしれないが。

 今回は寄り道して本題に行き着かなかったが、次回はいよいよ『日本架空伝承人名事典』についてふれたい。


2005年4月16日 オーストラリア・ビクトリア州
写真=大木茂