(1)手柄話は自分事
[2012/6/13]

 『死ぬまで編集者気分』を書いて、ようやく宿題の一部を片づけた気分でいたら、すぐそのあとから、書き残したことや新たに書きたいことが次々に出てくる。そこで新宿書房のHPを借りて、思い出すままに、それらのことを連載コラムとして書いてみようと思う。

 この本の一章、「パティオの小さな空のもとで」と同じ題名のもとに、さらに独り居の編集者の追想や空想を、死ぬまで書きつづけてみるつもりでいるが、その先がどこへ行くか、実のところ自分でもよくわからないのである。

 わたしの失敗物語のつもりで書いた『死ぬまで編集者気分』は、刊行されると思いもかけぬ多くの方々から批評や感想をいただいた。それにつけても、わたしの文章に、説明不足や誤解を招く表現が多々あることに気づいた。そういうわけで、とりあえずは、その訂正や言いわけから始めたいと思う。

 この本の155頁に、阿部謹也さんの『ハーメルンの笛吹き男』(1974)にふれたところがある。わたしは、平凡社社会史シリーズのきっかけになった、この本の出版のいきさつについて、こう書いた。「このはじめの一節は、じつは岩波書店の『図書』に掲載されたものであった。書籍課の高橋健次さんが見つけて、わたしに目を通すように勧めてくれた。一読してわたしは、すぐ小樽に電話して、平凡社から本にしたいとつたえてほしいと頼んだ」。そして阿部さんがその著書の「あとがき」に、平凡社の編集部のアンテナの高さに敬服した、と書いていると付言した。

 刊行そうそう雑誌『en-taxi』(第35号、扶桑社)が、匿名コラム欄でわたしの著作をとりあげてくれたが、この部分について鋭い突っ込みを入れている。

 「ところがこの話、実際の『ハーメルンの笛吹き男』の「あとがき」は全然違う。その「一節」が載ったのは『図書』ではなく、『思想』(1972年11月号)だし、その『思想』が出て、「二週間もたたないある日」、小樽に住む阿部謹也のところへ電話をかけてきたのは平凡社の吉村千頴で、阿部謹也は「吉村氏のアンテナの高さにびっくりした」と書いているのだから」。

 この点はまったく『en-taxi』の書評のいうとおりで、評者がこまかく読みこんでいることに感服した。しかも、この阿部さんの「あとがき」はちくま文庫版にもそのまま収録されていて、いまなお世間に広く流布されているので、だれもがツッコミたくなる。

 ただ、この書評のタイトルにも使われている「手柄話は自分事」というのは、匿名批評子がそうとったとしても仕方がないが、わたしの真意ではない。

 この書評はまず、「ぞくぞくするほど面白い」と褒めあげておいて、最後に「手柄話は自分事」と落とす、いかにも匿名批評らしい趣向になっている。サゲについて説明を加えるのは野暮な気がしなくもないが、これは出版社の仕事ぶりにもかかわることだから、以下のような、無粋な内輪の事情があったことを釈明しておきたい。

 この追加原稿を執筆していた2月下旬は寒い日がつづいた。ある日、書斎のエアコンが故障したので、ストーブをもちこんで暖をとっていたら、パソコンが突然動かなくなった。メーカーのサポーターに連絡すると、ストーブの熱でハードディスクがクラッシュしたらしい。パソコンのカウントでは6万字ほど書いたところで、そんなときにかぎってバックアップをとっていなかった。

 新宿書房に電話して、それまで送っていた約2万字の文章から再出発したのである。それから締め切りまでの10日間に約100枚の原稿を書いたのだから、わたしとしては経験したことのない速度だった。そういうわけで、二度目の原稿は、手もとに原本が見つからないときは記憶によって書いた。またそのとき、最初の原稿にあった部分を書き落としたり、誤記や誤変換をおかしたりした。三校時にそんな有様だったから、校正の担当者は手を焼いたことであろう。

 『ハーメルンの笛吹き男』のところは、校正のとき、新宿書房から阿部さんの原文とはちがっているという指摘を受けた。

 この本の担当は吉村千頴さんだったが、もともと、このことを書いておきたいと思ったのは、編集部がどのようにして阿部さんを発見したかということだった。それはわたしがこの本に書いた通りである。

 担当の吉村さんとともに、上京した阿部さんに初めて会ったのは、麹町にあった当時の日本テレビ前の鮨屋「玉柳」で、その二階の小座敷を使った。そのとき、まだ会社で仕事をしていた高橋さんを電話で呼び、「最初に小樽に電話したのは、この男です」と紹介した。彼があらわれる前に、阿部さんから「どんな人ですか」と聞かれ、「日露戦争のころ欧米人が描いた漫画の日本人のような顔をしていますが、英語をはじめ外国語がよくできる男です」といささか失礼な説明をした覚えもある。阿部さんはあとで、「すごい紹介でしたが、ぴったりでしたね」とささやいた。この件は阿部さんの記憶違いであるが、わざわざ訂正を求めるほどのことではないと思ってそのままにしてあった。

 新宿書房の指摘を受けて、こうしたいきさつも紹介したかったが、すでにそのときは三校で、索引もとり終えていていたので、大きく文章を動かしたくなかった。阿部さんの「あとがき」には吉村千頴の名が出ているのだから、阿部さんの間違いを正さなくても、わたしの文章を「編集部」にすればいいだろう、そういうズボラな判断をしたのである。

 なにごとにも「ダルム・デンノッホ・ドゥルヒ(だからして、にもかかわらず、問題にぶつかるか、やりすごすか)」をとなえる性癖の、ズボラな方の流儀が出てしまったのであった。そして、この文章が掲載されたのが『図書』ではなく、『思想』の思い違いであったことは不覚にも気がつかなかった。

 文章を端折ったため、「手柄話は自分事」と受けとられかねない話は、このほかにもいろいろ出てくるかもしれない。したがって、「手柄話は自分事」の項は、その2、その3と書くようになるかもしれない。

(2012年6月9日)

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2004年2月15日 ニュージーランド 反時計回りの日時計盤
写真=大木茂