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明治なかごろの牛乳事情

[2001/07/30]

吉田豊

日本での牛乳販売は横浜では文久年間に、東京では明治の初期、3年(1870)からはじまり、どんどん増えていった。東京の牛乳搾取販売組合員数をみても明治8年に20名だったのが、27年には250名にもなっている。つづいてバターやアイスクリームも早くからつくられた。

「大森貝塚」で有名なモースは明治10~12年に滞在した動物学者だが、秋の一日、お雇い外国人の一員として東京・上野公園の教育博物館で、まことに西欧的な接待を受け、そのときピラミッド型のアイスクリームに出会って面食らった、としている(『日本その日その日』)。

しかし、東京や横浜からちょっとでも離れた所ではガラリと変わって、そのころでも牛乳・乳製品がまったくない。モースが研究で神奈川県・江ノ島にいたときの生活を、毎日の食事はサツマイモと魚ばかり、バターを塗ったパン、牛乳に漬けたパンを手に入れることができたら、新しい靴をあげてもよい、といって嘆いている(同上)。

だから、角川書店のPR誌『本の旅人』2000年10月号に、小泉八雲の曽孫(ひまご)にあたる小泉凡氏が書いておられる随筆「『日本の面影』と松江の牛乳」中の疑問もよくわかる。同氏は、曽祖父の取材・著作に対する旺盛な行動力の源は、朝ご飯に関係があるのではないかと仮定された。しかし、八雲の食事の世話をした冨田旅館の主人と女将の「朝は牛乳、卵で…」という口述筆記を見つけられても、明治23年(1890)の松江ではたして毎朝牛乳が飲めたかと疑っておられた。ところが最近、松江に住む陶芸家の友人から、自分の曽祖父が明治6年(1873)から搾乳業をはじめて、乳を松江市中に売り歩き、八雲もそれを飲んでいたらしい、という話を聞いてようやく納得されたようである。

実は牛乳や乳製品に関する先駆者は、北海道から鹿児島まで全国にいたのである。日本海側では石川県や島根県などが目立つ。金沢では明治2年(1869)から洋牛を飼育したり牛乳を販売している。島根県では明治24年すでに煉乳という、牛乳を濃縮した高級な製品まで製造しはじめている。

したがって小泉凡氏が、松江の友人から聞いたという話も、当然ありえたものとしてうなずくことができる。

吉田豊さんは『牛乳と日本人』の著者。主な著書には次のものがある。

『四谷本塩町十三番地由来記』(1966年 雪印乳業株式会社)
『味百年』(1967年 日本食糧新聞社)共著
『食品産業事典』(1972年 日本食糧新聞社)共著
『健康美をつくる乳製品』(1996年 裳華房)共著


 


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