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死と再生の沖縄集落誌を記録する

[2001/07/30]

加藤久子

観光シーズンの賑わいとは裏腹に、沖縄では悲しみと怒りの記憶をよみがえらせている。続出する米兵の暴行犯罪、九州・沖縄サミットにおける外務省課長補佐らの逮捕。普天間飛行場代替施設の15年使用期限問題、日米地位協定の改訂、海兵隊の削減など不透明なままでいっこうに進展をみない。

沖縄は太平洋戦争の末期、日本国土唯一の地上戦に巻き込まれた。戦死者は25万人を超え、うち沖縄本島と周辺の島々の犠牲者は17万人、当時の県人口の三分の一に当たると言われる。砲弾と飢餓から生き延びた住民は米軍の捕虜となり、沖縄の戦後は米占領下の収容所生活から始まった。

草木一本残らない焦土で、唯一海だけが人々の飢えと傷ついた心を救った。浜に降りて戦死した肉親の遺骨がわりサンゴ礁のかけらを骨壺に納め、ニライ・カナイと呼ばれる海の彼方の楽土に祈りを捧げた。

食を求めて、放置されたダイナマイトを海中に投げ、浮き上がった魚をかき集めた時期もあった。戦器の補助タンクをふたつに割った簡易船「タンクブニ」を操って魚を捕り、海水を炊いて塩を作った。日が暮れると岩場に眠るいかやたこを捕って近隣の農家で主食の芋と替えた。そうした技と智慧を提供したのが「海人」(ウミンチュ)と呼ばれる漁民たちだった。

沖縄を代表する漁民を生んだのは、沖縄本島最南端に位置する字糸満(あざ・イトマン)。透明度の高い海を漁場に、40人から50人の漁師集団が、素潜りで回游魚を一網打尽に袋網に追い込む。水深30メートルのサンゴ礁の海中で、素潜りの男たちが整然と連なり、威かく道具(スルシカー)を操りながら魚群を追う。敷設された袖網(垣網)に誘導し、一気に袋網の中へ追い込む。他のどこにも見られない沖縄独自の漁法が生み出されたのは1890年(明治23)頃の事であった。魚群を追い「アゲル」ことから「アギヤー」あるいは「廻高網」(まわしたかあみ)と呼ばれる。

サンゴ礁台地の上にひしめき合って形成された漁村から、より広大な漁場を求めて南西諸島はもちろん南洋群島、フィリピン、シンガポール、スマトラ、北ボルネオへと出漁した。「糸満漁夫」は沖縄の漁民を意味し、「糸満アンマー」(アンマーはお母さんの意)は、魚を販売する女性の代名詞となった。

大型追込網漁が必要とする大量の労働力に応えたのが「糸満売り」として集められた子供たちだった。彼らは「ヤトゥイングヮ」(雇われた子)、「コーイングヮ」(買われた子)と呼ばれ、漁民予備軍として雇われ、やがて力をつけて南西諸島各地に定着した。現在、県下有数の漁業圏となった八重山石垣島もまた遠く海を越えてやってきた沖縄本島の糸満漁民によって拓かれた漁業基地である。

徴兵検査の満20歳を年期とする糸満売りは、沖縄本島北部、国頭(クニガミ)地域の子供が群を抜いていた。 最大のピーク期は沖縄がじり貧の経済不況を迎えた大正末期から昭和初期にかけてだった。なかでも生活破綻が激しかった国頭をはじめとする農村部の子供たちが労働力として送り込まれた。

戦前に糸満売りで名をはせた北部地区ヤンバルは、沖縄戦の直前から戦中にかけて、さらなる受難の地となった。戦力となり得ない非戦闘員、年寄りと幼児を抱える女性たちの移住先となったが、米軍は読谷(ヨミタン)村と北谷(チャタン)村の海岸に上陸、東海岸一帯は戦場と化した。直ちに軍政が着手され、避難民は米軍に捕らえられ捕虜として収容される。

収容先では連日負傷者と栄養失調で死者が続出した。その北部でひとりの女の子が生まれた。手のひらに載るたった900グラムの新生児が奇跡的に命をつなぎ止めた。「1斤半で生まれたのは私です」。笑みを浮かべた女性が聞き取り調査をしている私の前に現れた。当時8歳と10歳であったという二人の姉も同席してくださった。何世帯もが同居する仮小屋で、夜も横になるスペースはなく、母はいつも赤子を懐に入れて座っていたこと。米軍の使用済み六斤缶(ろっきんかん:3.6・入りの食料缶詰の空缶)で入浴させたことなど、記憶をたどりつつ、姉妹は嗚咽した。

さて、沖縄の調査研究に関わって十数年、私を励まし導いてくれたのは、夫、加藤雅毅(『海女たちの四季』の編者)に他ならなかった。その彼が逝って2年。一時は途方に暮れたが、沖縄戦の壮絶な生と死の体験を振り絞るように語って下さる方々に生きる力を与えられながら、私は沖縄に通い続けた。その貴重な戦後記録(『小湾(コワン)字誌』戦後編、2003年刊行予定)のプロジェクトは、いま目標に向かって追い込みに入っている。

(かとうひさこ/法政大学沖縄文化研究所国内研究員)

[加藤久子さんの主な著作]
「八重山における糸満漁民の出漁と移住─石垣島の漁民集落の形成と漁業活動を中心として」(法政大学沖縄文化研究所『沖縄八重山の研究』の第四章、相模書房、1999年
「漁村・糸満における地域共同体としての門(ジョー)の形成と機能」『沖縄文化研究』(13)、法政大学沖縄文化研究所、1987年
『糸満アンマー 海人の妻たちの労働と生活』(おきなわ文庫50)ひるぎ社、1990年
「糸満における漁業の変遷と妻たちの労働」『歴史評論』(529)、1994年5月号
「門(ジョー)からみたハーレー 沖縄本島糸満の爬龍船競漕」『季刊・民族学』(40)、1987年
「池間島の漁業と離島苦の女性労働」『地域と文化』(第45号)、ひるぎ社、1987年
「サンゴ礁の海に生きる南島の女たち 沖縄・池間島の生活史を求めて」『中央評論』(179)、中央大学、1987年
『小湾字誌ー沖縄戦・米占領下で失われた集落の復元』(共著)、浦添市小湾字誌編集委員会、1995年


 


あああ
あああああああ