(103)フーテン編集者日乗
[2024/1/23]

あっという間に2024年1月も20日を過ぎた。会社も解散し、いよいよ「ひとり(フーテン)編集者」(おしゃれに言うと「旅する編集者Wandering Editor」です)の毎日が始まっている。

1月5日 都会のローカル線といわれる「鶴見線」の完全乗車を果たした。計画立案者はサビ鉄の師匠、あの孝治さん。朝5時に起床。西武新宿線鷺ノ宮駅から高田馬場駅、山手線で品川駅、そして京浜東北線で鶴見駅。ここの「鶴見線」の改札口が集合場所だ。鶴見線は鶴見駅から扇町駅までの主線に、浅野駅から海芝浦駅までの海芝浦支線、武蔵白石駅から大川駅までの大川支線で構成されている。このまるでタコの足のような鶴見各線を行ったり来たりの乗車。全長9.7キロ、鶴見駅を除いてすべて無人駅。最初の駅「国道駅」で下車。1945年4月から始まった川崎工業地帯への空襲。駅の壁には米軍の機銃掃射による弾痕が残っている。鶴見線の前身は「浅野財閥」の浅野総一郎が建設した「鶴見臨海鉄道」(1926年)だ。そのため駅名には京浜工業地帯の重化学工業に関係した人名がつけられている。「浅野駅」はあの浅野総一郎、「安善駅」は安田善次郎、「武蔵白石駅」は白石元次郎だ。そして「昭和駅」は工場のある昭和電工(2023年に「レゾナック・ホールディングス」に)からだ。びっくりしたのは安善駅の前に在日米海軍の貯油所があり、ここからいまでもタンク車(米タン)が、南武線、青梅線を経由して在日米空軍横田基地に入っているという。戦後はまだ終わっていない。そして大昔の反米タン闘争、新宿騒乱事件を思い出してしまった。


鶴見線路線図


国道駅

さてこの日は鶴見線の旅だけでは終わらなかった。鶴見線は浜川崎駅で別れを告げ、南武線浜川崎支線そして本線と乗り継いで川崎駅に。ここでランチの後、京浜東北線で秋葉原駅へ、そして総武線亀戸駅で下車、東武亀戸線に乗り、終点の曳舟駅。ここで東武伊勢崎線に乗り換えて、東向島駅で下車。ここは1987年まで「玉の井駅」だった。東向島駅から向島百花園に始まる散歩は、『絵地図師・美江さんの東京下町散歩』(高橋美江著、初版:2007年、新版:2013年、新宿書房)の絵地図「向島」の一部をなぞることになった。今回の収穫は美江さんの散歩では詳しく語られなかった「鳩の街」の商店街の通りを歩いたことだ。また残念なのは、「日活向島撮影所」(「近代映画スタジオ発祥の地」の碑)があった堤通の方に行けなかったことだ。昨年公開されたドキュメンタリー映画『キャメラを持った男たち−関東大震災を撮る』に登場する、撮影技師・高坂利光は震災当日、その日活向島撮影所から助手ふたりでカメラを担ぎ、歩いて浅草、日本橋、銀座、日比谷の被災現場を撮影したのだ。サビ鉄一行は桜橋を渡り、隅田川沿いを歩いて地下鉄銀座線浅草駅へ。師匠夫妻は上野駅で下車。われわれは赤坂見附駅で乗り換え、丸の内線で荻窪駅へ。帰宅は18時半を回っていた。さすがに疲れた。歩数は18329歩だった。

  
鳩の街商店街。おでんを買う。翌日、近くの図書館に行って、
『赤線跡を歩く―消えゆく夢の街を訪ねて』『玉の井という街
があった』『玉の井―色街の社会と暮らし』などを借りる。

1月9日 『神奈川大学評論』編集部から頼まれたリレーコラム「編集者の覚え書き」の初校ゲラを返す。『神奈川大学評論』とは何の縁もゆかりもないが、日本常民文化研究所もあ り、かつては、網野善彦さんもいた大学だから、これはうれしい原稿依頼だ。
1月10日 『中日新聞』編集局文化芸能部・宮崎正嗣さんが取材で来宅。会社解散までの経緯やこれからのこと(フーテン編集者)などをお話しする。宮崎さんは『新宿書房往来記』の刊行時や神田神保町東京堂での「新宿書房祭」でも取材をしてくれた(本コラム(21)など参照)。
1月12日 江戸川橋のハートクリニックへ定期検診。地蔵通り商店街を歩き、ランチ。
1月13日 阿佐ヶ谷駅までバス。Marc阿佐ヶ谷で『キャメラを持った男たち』を見る(~18日まで)。井上実監督、アフタートークに登壇。
1月16日 九段南の記録映画保存センターで、3月9日の『夜明けの国』(1967年)の上映会に備えての坂口康さん(本作・助監督)へのインタビューに立ち会う。坂口康さんは岩波書店の少年社員をへて、1961年に岩波映画製作所入社、助監督となる。1966年8月、監督の時枝俊江、撮影キャメラマン・同助手との4人のチームで中国に向かう。翌年の2月までの長期ロケとなった。実は康さんは、坂口顕さんと双子の兄弟。兄の顕さんも中卒後、岩波書店の少年社員なり、高卒後に岩波書店の社員になっている。私は田村義也さんを通して、坂口顕さんには、たいへんお世話になった(「ふたりの編集者」(『新宿書房往来記』参照)。
1月17日 『神奈川新聞』の井口孝夫記者からメール。能登半島地震に遭遇した経緯と報道記事4本が送られてくる。
「新宿書房の記事(注:2023年12月26日取材)ですが、年末年始に災害などが色々と発生し、掲載が遅くなっており、申し訳ないです。あの後、『海女たちの四季』『如月小春は広場だった』などを読ませていただいております。掲載まで、しばしお時間をいただければ幸いです。出来うる限り早めの掲載を目指します。
それと、以下は私事で恐縮なのですが、先月28日に闘病中だった富山市在住の父が死去し、葬儀を終えた元日午後に、富山市内で震度5強の揺れで被災しました。が、そこは『キャメラを持った男たち』を観賞した男なので、キャメラを手に気がつくと避難所で取材を始めており、岩岡巽や白井茂たちの気持ちが分かった気が致します。」
なんと1月1日の能登半島地震に遭遇したのだ。以下、井口さんの記事を紹介します。
1)泣き叫ぶ声、頭よぎった「死」 帰省先の富山市で被災した記者が見たもの 能登半島地震 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)
2)能登半島地震 富山・氷見で全世帯の6割断水 「大きな余震起きたら…」 能登半島地震 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)
3)歴史の町・七尾、倒れた洋品店は大正期の文化財 店主「前を向かなきゃ」 能登半島地震 動画 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)
4)噴き出す泥水、傾いた家 石川・内灘町で液状化深刻「住み続けられるのか」 能登半島地震 動画 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)
5)「まだまだ水が足りない」 石川・被災地の総合病院、人工透析もできず 能登半島地震 | カナロコ by 神奈川新聞 (kanaloco.jp)
1月19日 共同通信・田北明大記者から、昨年11月30日の新宿書房取材の地方紙記事掲載号が送らてれくる。琉球、山陽、南日本、山形、千葉、茨城、秋田さきがけ、埼玉、山陰、・・・。見出しも各紙いろいろ、面白い。午後、神田神保町に出かける。4時に「ミロンガ」で出版社の人に会う約束がある。時間があるので、知り合いの出版社に顔を出す。まず、風行社。犬塚さんは不在だったが、伊勢戸さんはゲラをテーブルいっぱいに広げて忙しい。次に、はる書房。佐久間さんも元気だった。
1月20日 和光大学へ。荻窪駅~新宿駅~鶴川駅のルートだ、小田急線は高架化、地下化が進んでいる。登戸駅まで複々線ではないか。我が某西武新宿線の惨状にくらべなんという差だ。原武史先生もたぶん怒っています。本日目指すは「小林茂先生退任記念特別映画上映会」(1月20日・27日)だ。会場では小林茂さん(1954~)が会場を忙しく歩き回っている。小林茂教授とは久しぶりの再会となる。『そっちない、こっちや―映画監督・柳澤壽男の世界』(新宿書房、2018年)の編集・刊行では、たいへんお世話になった。この日12時から上映では『阿賀に生きる』(1992年、監督:佐藤真、撮影)、『阿賀の記憶』(2004年、監督:佐藤真、撮影)、『放課後』(1997年、監督・撮影・企画・製作・ナレーション)、『自転車』(1999年、監督・撮影・企画・製作・ナレーション)、『ちょっと青空』(2001年、監督・撮影・企画・製作・ナレーション)の4本は上映された。新潟水俣病は阿武隈川の上流にあった旧・昭和電工鹿瀬(かのせ)工場から垂れ流された有毒な排水によって引き起こされた公害だ。『阿賀に生きる』は阿武隈川の中流、安田町(現・阿賀野市)に住む、三人の老夫婦が主役だ。田んぼを守る長谷川芳男・ミヤエ、船大工の遠藤武・ミキ、餅付き職人の加藤作二・キソの3組だ。映画のクランクインは1988年、クランクアップは1991年、完成上映は1992年。それから32年が過ぎた。
参考文献:
「新潟水俣病・安田患者の会と私 事務局・旗野秀人(2006/1/17)
『阿賀に生きる』に出演した旗野秀人の報告である。
https://www.env.go.jp/council/26minamata/y260-07/mat03.pdf