(100)只見線の3つの物語
[2023/11/11]

映画『白い機関車』
元岩波書店の編集者・小野民樹さんから、『黒の会手帖』第23号(2023.10)が送られてきた。デザインは坂口顕さん。


『黒の会手帖』(第23号)表紙

この号で、小野さんは「日本映画散歩・その7」と題して、「白い機関車」という文を寄稿している。「ながおか映画祭」に出かけて、自分の父・小野春夫が製作(原作)に深く関わっていた教育映画『白い機関車』(1955年・35分・製作:機関車労働組合)を観たという。実はこの映画のことはずいぶん前に、「俎板橋だより」(122)に書いたことがある。

9月下旬には、長岡市に住む映画監督・小林茂さんからもメールをいただいていた。「お世話になります。[ながおか映画祭]での『白い機関車』の上映が無事終わりました。当時、この映画に出演した(子どものエキストラ)という80歳の女性が現れて、対談にも登壇してくれました。小野民樹さんも娘さんと長岡入り。大きなスクリーンで観ることができました。また、映画の撮影現場である操車場や前川小学校の校舎や付近のロケ場所を見にいきました。これは、山形県の米沢市視聴覚センターから借りてきた白黒16ミリのフィルムです。(後略)」

小野さんの文に戻ろう。映画は1955年(昭和30)2月8日にクランクイン、ロケ地は豪雪地帯の上越線の長岡駅周辺に決定。「ほぼ順調にきた天候が、3月に入って雨がふりだし長岡の雪が融けてくる、スタッフは緊急会議で、雪の豊富な只見線越後須原駅に移動、機関車労働組合(機労:動労の前身)長岡分会から組合員多数が応援にかけつけ、昼夜兼行で雪の機関車をつくりあげた。クランクアップは3月8日であった。」とある。
長岡市そして当時は北魚沼郡須原村にあった越後須原駅などで撮影された『白い機関車』が、この映画のロケ地で開催された「ながおか映画祭」で久しぶりに、それもほぼ完全に修復された形で上映されたのだ。

只見線の旅
越後須原駅のある場所は、1956年に須原村と上条(かみじょう)村が合併して守門(すもん)村となり、現在は魚沼市須原になる。この越後須原駅、いまは無人駅だが、なんと私は先月この駅を通過したのだ。大井川鐵道、飯田線(本コラム77、85参照)に続いて、われわれサビ鉄グループ4人は、10月18日から20日までの、2泊3日の「只見線完全乗車」の旅をしたのである。只見線は2011年に豪雨災害で会津坂下~小出間が不通になった。そして、2022年10月、11年ぶりに「設備保有・運転の上下分離方式」で全線復旧したばかりだった。
サビ鉄コースは、東京~大宮(ここでグループ合流)~浦佐までは上越新幹線、浦佐から在来線に乗り換えて小出駅に。発車までに時間がある。駅前の蕎麦屋で昼食。イワナの塩焼きも注文したら、いきなり女将が目の前の水槽からイワナを網ですくうのには驚く。
13時12分小出駅発の只見線・会津若松駅行の列車に乗り込む。終着駅の会津若松駅には17時24分には着く。ここから2両連結の列車は、会津若松に向かった。


只見線の36駅
入広瀬駅と大白川駅の間にあった「柿ノ木駅」、大白川駅と只
見駅の間にあった「田子倉駅」は、それぞれ廃駅となっている。

小出駅から三つ目の駅、越後広瀬駅に着く。川本三郎さんは『映画の中にあるが如く』(キネマ旬報社、2018)の[『男をつらいよ』の「汽車」のことなど」のなかで、こんなことを書いている。
「第7作『奮闘編』(71年、榊原るみ主演)では、冒頭、寅が只見線の越後広瀬駅で、東京に働きに出る集団就職の少年少女たちをホームで見送る。そのあと「俺もあの汽車●●、乗るんだった」と走り去ってゆく汽車を追いかける。」
映画のナレーションは続く。「可愛い子には旅をさせろと申しますが、年端もいかねえのに労働に出なきゃならねえこの若者たちに、遊び人風情の私が生意気なことでざいますが、こう言ってやったんでございます。親を恨むんじゃねえよ、親だって何も好きこのんで貧乏してるわけじゃねえよ、ってね。」
寅次郎は集団就職の学生たちを「くじけんじゃねえぞ」と見送り、列車は去って行く。そして乗り遅れた自分に気付き、あわてて追いかける。
春。まだ雪残る新潟の山間部・越後広瀬駅(当時は北魚沼郡広神[ひろかみ]村、現・魚沼市並柳)の待合室から「男はつらいよ」シリーズ第7作『男はつらいよ 奮闘篇』(山田洋次監督・1971年・松竹)は始まる。
待合室では就職のため上京してゆく学生服姿の少年少女たちと、その母親たちがストーブの暖を取っている。そのなかに一人、少し場違いな風貌の寅次郎。映画は「冬来たりなば春遠からじと申しますが・・・」という寅次郎のナレーションで始まる。この場面は、予告編でも使われている。映画のロケは1971年(昭和46)3月末のようだ。同じ年の8月に只見線は動き出す。

只見線・会津線全通と田中角栄
久しぶりに、いやちゃんと読むのは初めてかもしれない。図書館から本を借りてきた。
田中角栄著『日本列島改造論』(1972年、日本工業新聞社)
田中角栄著『復刻版 日本列島改造論』(2023年、日本工業新聞社)
小牟田哲彦著『「日本列島改造論」と鉄道―田中角栄が描いた路線網』(2022年、交通新聞社)
磯部定治著『只見線物語』(1989年、恒文社)
この4冊だ。復刻版の『日本列島改造論』の冒頭には田中眞紀子による序文が収録されている。これらの本から、田中角栄が赤字ローカル線についてどのような考えを持っていたのか をあらためて知ることになる。

只見線は小出~大白川間をいい、会津線は会津若松~只見間を指した。未通の只見駅~大白川駅間(20.5km)が延伸開業し、会津若松駅から只見駅間を会津線から分離し、只見線に統合、会津若松駅から小出駅までの135.2kmの「只見線」が誕生したのは、1971年(昭和46)の8月29日のことである。小出駅を出発した祝賀列車が只見駅に着いたのは午前11時35分だった。その列車から降り立った人の中に、田中角栄の姿があった。新潟県選出の国会議員だった田中角栄は当時、佐藤栄作内閣の通産大臣であり、同時に小出―只見線全通期成同盟の会長を務めていた。全通当日、只見駅から式典会場の小学校に移動した田中角栄はこう演説したという。
「只見線の全線開通は鉄道を考え直す新しい歴史のスタートだ」。「赤字線やペイしない鉄 道はやめるべきだという考え方を転換し、国の総合開発のために再評価すべきであり、それ に先鞭(せんべん)をつけたのが只見線。福島も新潟の人たちも協力して広い視野でこの意 義をかみしめ、大きく育ててほしい」。

地方路線の重要性にも触れたあの『日本列島改造論』が出版されたのは、翌年の1972年の ことである。