(91)同潤会代官山アパート物語
[2023/8/1]

小平市に東京ガスの「GAS MUSUM がす資料館」という歴史資料館がある。ここで「震災復興100年 同潤会アパートが創った昭和モダンライフ展」が行われていることを、新聞の小さな記事で知り、さっそく出かけることにした。関東大震災100年にちなんだ催事のひとつだろう。あまりの猛暑に、車で行くことにした。昔、保谷(現・西東京市)に住んでいる頃は、新青梅街道に面して建っているこの資料館の前を、愛犬(ザック)を乗せてたびたび通ったものだ。ここには「ガス灯館」と「くらし館」の二つの煉瓦造りの建物がある。「同潤会アパートが創った昭和モダンライフ展」は「ガス灯館」の2階で開催されていた。


チラシ表



パンフ(4p)のp1

大正12年(1923)9月1日午前11時58分、マグニチュード9の巨大地震が東京、神奈川を中心とする関東地方を襲った。ちょうど昼の食事の準備していた密集する一般家屋や飲食店から火災が起きて東京下町は焦土と化し、関東平野全体で10万人を越える死者を出す大惨事になった。これが100年前の「関東大震災」である。当時、一般的に煮炊きには炭や薪を燃料にした「七輪」や「かまど」を使うことが多かったのである。
同潤会は被災者に安全で安定した住宅を供給することを目指し、大震災の翌年の大正13年(1924)5月に、世界各地や全国から寄せられた義援金のうち1000万円を原資に発足した財団法人だ。大正14年度(1925)から始められた同潤会のアパートメント事業は、日本でのコンクリート集合住宅の先駆けとなった。電気・ガス・上下水道の完備した鉄筋コンクリート造りの「同潤会アパート」は、昭和のモダンな暮らしぶりを世に広めていった。
本展は3つの「同潤会アパート」に焦点をあてている。
1)同潤会青山アパート 原宿・表参道にあり、1926年(大正15)に第一期入居貸出し、1927年(昭和2)には第2期工事が完成し、総戸数は138戸となった。平成15年(2003)に再開発のために取り壊された。
2)同潤会代官山アパート 渋谷駅南側の高台。1927年(昭和2)貸付開始。東急東横線開通は1926年で代官山駅も開設された。3階建ての中層住宅で、食堂(代官山食堂)、公衆浴場(文化湯)、商店があった。昭和5年(1930)の第4期竣工をもって、36棟337戸の団地となった。平成8年(1996)に再開発のために取り壊された。
3)同潤会江戸川アパート 神田川近くの新小川町。同潤会10周年記念事業の集大成として、昭和9年(1934)に建設された。平成15年(2003)に取り壊された。

いまから40年以上前のこと。私はこの同潤会代官山アパートに住んでいたことがあった。『新宿書房往来記』(港の人、2021)は、「百人社の三冊」という章から始まっている。1980年(昭和55)の夏に平凡社を辞めた私は、「百人社」という出版社をひとりで立ち上げた。その際ひとり住まいを始めた私は、同潤会代官山アパートに住んでいた写真家のSさんの好意で、彼の事務所兼住まいの2部屋の一つを間借りすることになった。部屋は3階にあり、入口を入ると台所を挟んで南北にひと部屋ずつ。わたし部屋は北側だった。又貸しのため、家主には最後まで会うことはなかったが、なんでも有名な日本共産党の元幹部の人だと聞いた。
最初は百人社の事務所として借りていたが、いつのまにか住居となった。第1期竣工からいや第4期竣工からも半世紀もたった代官山アパート、ボロボロですでに遺跡のような匂いがしたが、集合住宅の機能は保っていた。しかも渋谷に近いにもかかわらず、緑豊かな静かな団地だった。代官山食堂や文化湯も健在だった。代官山食堂のおばさんが懐かしい。
百人社の最初の本、『明治両毛の山鳴り』(田村紀雄 著)はこの代官山アパートから生まれた。装丁は田村義也さん、巻頭の絵地図を描いてくれたのは映画監督の松川八洲雄さん。おふたりは知り合いではなかったが、偶然、東急大井町線の九品仏駅の南の踏切近くに田村さん、北のお寺に近くに松川さんが、それぞれ住んでいたので、打ち合わせに行くには代官山駅がとても便利だった。そのうち、百人社の事務所は西新宿の桜映画社の分室内になった。私も高井戸に住まいを構えることになったので、私の代官山アパート生活も半年ほどで終わった。

参考サイト:
がす資料館
https://www.gasmuseum.jp

Daikanyama.Life
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