(90)同級生旅行?
[2023/7/22]

先日、小さな旅をした。男3人の旅だ。
火曜日の午前9時半、ここ白鷺の家に次兄が迎えにくる。今日から2泊3日の予定で、彼の八ヶ岳山麓にある山荘に行くのだ。野良ネコのたまちゃん、3日間の留守ゴメンねと呟きながら、いつもより戸締りを厳重にする。新聞の宅配もこの間は断った。まず、伊勢原市に住む長兄宅に向かう。環八の高井戸付近、東名の大和トンネルあたりが大渋滞。結局、着いたのが11時半をまわる。
そう、今回のメンバーは長兄、次兄そして私の3兄弟。男だけの山荘暮らしをしようというのだ。これは次兄の発案だ。「最初で最後の旅だね」と冗談を言う。5歳上の長兄(正実)は映画監督、2歳上の次兄(英世)は映画製作者。建ってから40年近い山荘だが、次兄夫婦が月一回程度通っているので、管理は万全だ。ランチは途中ですまそうと、長兄の陶芸家の奥さんに挨拶してすぐに出発、向かう先は山梨県北杜市。ちょうど工房では陶芸教室が開かれていて4、5人の元気な女性たちが手を動かしていた。
厚木ICから圏央道を北上、高尾から中央道に入る。どこかでランチをと思いながら、いくつかのSP、PAを通りすぎるが、食べたいものが一同思い浮かばない。そのまま通りすぎる。ここはいまメチャメチャな猛暑のようだ(途中の大月市ではこの火曜日の11日に38.7度と今夏全国最高気温を記録したことを後で知る)。結局、次兄の提案で山荘近くにある大泉の藤乃家の行くことにする。昼の営業時間を調べてみると、午後1時半がラストオーダー、なんとか間に合う。藤乃家は次兄が山荘を開いた時に、よく通った手打蕎麦の店だ。
山荘に着くと、それぞれの寝場所を決め、2泊3日の予定を考える。朝食はここで、昼飯、夜飯は外食に。予約をいれようとすると、火曜日、水曜日は定休が多い。当てにしたところがみな休みだ。3日間の外食記録は以下のとおり。
11日 昼食:蕎麦 夕食:上海家庭料理
12日 昼食:ラーメン 夕食:海鮮料理
13日 午前:コーヒーショップ 昼食:鰻(熟成かめ塩のうなぎ)

このあたり、最近は定住者が増え、また別荘族も若い世代に移っている。外食の店が増え、朝の早いパン屋さんもたくさんある。モーニングサービスをする喫茶店やレストランが増えている。別荘に来ても食事づくりはイヤだということだろう。さらにペット可の貸別荘も増えている。またテレワークスペースやレンタルスペース(シェアハウス)も目につく。13日の昼前に寄ったコーヒーショップもテレワークしている若者でほぼ満員だった。長兄は小淵沢駅近くの鰻屋に行けたので大いに満足することになった。

ところで11日の夕食、中華のレストランで傑作な場面にでくわした。平日のこと、お客は最後までわれわれ3人だけ。奥のテーブルを囲んで、ビール、ノンアルを飲みながら大いにしゃべっては食べた。会計になって、仕事もないのか、奥の厨房からご主人が出てきた。
「同級生のみなさんですか?」
兄弟3人だよといくら説明しても、顔が似ていない、年も違わない、という。うーん、5歳ちがいの兄弟も、老人になると誰が年上かわからなくなるのか。兄たちを慕わないようなわたしの言動ぶりが原因なのか。しかし、このご主人のネーミングがいたく気に入り、われわれ兄弟3人は、以後この旅を「同級生旅行」と名付けることにした。

着いた翌日は朝から大快晴だ。6時過ぎにいつもの通りひとり散歩に出かける。田んぼの中を走る舗装道路にゴミはない。兄の山荘は田んぼ、畑の中にポツンとある一軒家だ。この風景は30年変わらない。田んぼの稲はかなり成長している。正面の南アルプスの山々が美しい。北岳(3103m)の頭には白い雲がかかっている。左手には富士山もくっきり見える。


朝の南アルプス

9時過ぎ、わたしのワガママな提案で入笠山(にゅうかさやま)に向かう。そこは小淵沢の隣り町、長野県諏訪郡富士見町にある、南アルプスの最北端にある山だ。膝に不安のある長兄と私にこの山にはたして登ることができるのだろうか。しかし何人のひとから、いい山だよ、ぜひ行きなさい、楽な山だよと勧められてきた。ここ富士見パノラマリゾートにあるゴンドラ山麓駅は標高1050メートルにあり、南諏訪ICから車で7分なのだ。そこからゴンドラに乗り、一気に山頂駅まで上がる。ここは標高1750メートル、すばらしい八ヶ岳の眺望が待っていた。入笠山は標高1955メートル、ゴンドラ山頂駅から片道1時間程度だそうだ。山頂からは、八ヶ岳、富士山、南・中央・北アルプスなど360度の大パノラマを見ることができる大快晴の日だったが、私は近くの湿原を見ることで今回は断念した。それでも眼下に原村、富士見町が広がる風景に大満足した。下りのゴンドラの中で次兄がこんなことを話してくれた。「この下にある富士見町(当時は諏訪郡富士見村)は昭和13年(1938)に村の半数の人々が満州開拓に加わり、富士見分村をハルビンの近くに建設したんだ。最近、この町でその記録映画が発見されたんだよ。」長野県教育界は昭和8年の「長野県教員赤化事件」の大検挙以後、満蒙開拓移民に大きく加担することになった。それが戦後になり、下伊那郡阿智村から始まった「残留孤児の肉親探し」の運動につながる(本コラム86参照)。眼下に広がる眺望の中に雲海のような歴史も流れている。満洲分村開拓というと、和田傳の小説や国策映画『大日向村』(1940)で描かれた大日向村が有名だ。大日向村は今の南佐久郡佐久穂町大日向にあった村だ。この同級生旅行で県をあげて満蒙開拓に参加した長野県の歴史を先日の飯田線の旅に続きまた学ぶことになった。

参考サイト:
「戦時期における満洲分村送出と母村の変容―長野県諏訪郡富士見町を事例に」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/80/2/...