(67)映画『キャメラを持った男たち』から見えてくる世界
[2023/1/7]

昨年12月26日の昼、映画を観るために師走の新橋に向かった。ドキュメンタリー映画『キャメラを持った男たち−−関東大震災を撮る』(81分)の試写会だ。その映画の製作者である村山英世(次兄)から、ヒマなら膝の運動を兼ねて出て来いよ、とメールをもらった。バス、中央線、山手線を乗り継いで新橋駅へ。この駅に来るのは何年ぶりだろうか。試写室は土橋交差点近くの高速道路高架下にあった。
このドキュメンタリー映画は国立映画アーカイブが集めた、あるいは寄贈されたフイルムや映画資料から生まれた。関東大震災の濫造記録映画群およそ20数本から、震災直後の光景を自ら手回しキャメラを持って撮影した3人のキャメラマンの存在にたどり着く。それは高坂利光、白井茂、岩岡巽の3人だ。1923年(大正13)9月1日午前11時58分に起こった関東大震災。その瞬間に3人がどこにいて、この未曾有の震災をなぜ敢えて映画に撮ろうとしたのか。その動機と足取りを、残された映像、手記、関係者へのインタビューなどを積み重ねて解明しようとする。3人が残した映像・手記・資料への精査、遺族へのインタビュー、映像アーキビスト(とちぎあきら)、撮影監督・キャメラウーマン(芦澤明子)、都市史・災害史家(田中傑)らの証言・考察などから、3人の撮影ルートなどが、ドラマチックに解明されていく。


関東大震災を撮ったキャメラ


キャメラを持った3人の男たち
(いずれも試写会のパンフから)

日活向島撮影所の撮影技師・高坂利光(こうさか・としみつ 1904~68)は当時19歳。この年の2月に公開された溝口健二の監督デビュー作『愛に甦る日』で、自らも撮影技師としてデビューしたばかりだった。劇映画を撮影中だった高坂は、地震で壊滅した撮影所からすぐさま、手回しキャメラと三脚を肩に、助手の伊佐山三郎に生フィルム400呎入りのマガジンを背負わせ、浅草を目指す。フィルムを使い果たしたふたりは2日に撮影所に戻る。3、4日も上野、浅草近辺の焼け跡を撮影。停電の続く東京では現像できない、しかも東海道本線が全線で回復していないため、その晩、日暮里から2泊3日をかけ信越まわりで京都に向かい、7日の午後に日活大将軍撮影所へたどり着く。すぐさま現像、その夜には京極帝国館で『関東大震災実況』(650フィート、11分)として公開にこぎつける。大震災実況の第一報だ。全館割れるような喝采、超満員の客だったそうだ。まさに活動屋魂そのものだ。

東京シネマ商会の撮影技師・白井茂(しらい・しげる 1899~1984)は9月1日当日、埼玉県熊谷町(現・熊谷市)で撮影の仕事をしていた。熊谷も震度6の激震だった。東京全滅の報を聞き、熊谷駅から大宮駅へ。そこからタクシーで川口まで、あとは不通になった鉄道の線路を歩いて、ようやく翌日に小石川の東京シネマ商会にたどり着く。すぐさま助手の太田芳太郎を伴い、火煙が上る九段下から銀座方面に向かった。日数をかけて撮影したフィルムはその後文部省に移管され、10月に『関東大震災大火実況』(63分)として公開された。後年『南京――戦線後方記録映画』(1938年)や『信濃風土記 小林一茶』(演出=亀井文夫、1941年)の撮影を担当することになる白井は、当時24歳だった。

岩岡商会の岩岡巽(いわおか・たつみ 1893~1955)は上野の根岸にあった商会の事務所で大地震を迎える。ただちにキャメラを担いで外に出るが、大混乱の中で撮影すると、石を投げつけられるありさま。一旦は会社に戻り、頭に白鉢巻きをする。意を決して再度現場に向かい、果敢に撮影を続けた。岩岡は梅屋庄吉のM・パテー商会で撮影の腕をみがき、独立。この時、30歳だった。

写された少年や張り紙文から人物を特定する作業、また映画カットを写真にして縦に並べ、その撮影場所・方向・時刻を同定する作業シーンもなかなかのものだ。そして、「キャメラを持った男たち」の、活動写真のリアリティーとニュース報道の力をよく知るキャメラマンたちだけが持つドキュメント精神は、2011年3月11日の東日本大震災の津波を撮影したテレビクルーまで今も連綿とつづく……。ラストで映画はそう伝える。

この関東大震災の記録映画から、いくつかのことを学んだ。1923年9月、残された映画はサイレント(無声)でモノクロだ。当時のメディアや交通機関にはどんなものがあったのだろうか。無線、電話、電報、新聞のメディア、これらはあった。郵便、鉄道、バスもあった。しかし、ラジオはなかった。ラジオ放送が開始されたのは1925年(大正14年)3月22日からだ。映画もサイレントからトーキーになるまでには、まだまだ歴史の時間が必要だ。東京に本社のある新聞社は印刷機が壊れ、新聞が発行できない。つまり、9月1日から数日間、関東周辺の人々には正しい情報を伝えるメディアがなかったのだ。現実はどうだったのか?音も色もない世界から想像するしかない。
伝聞、張り紙、噂、そして流言蜚語の類が世の中の情報手段となった。「朝鮮人が井戸に毒を入れる」「震災に乗じて暴動を起こす」そういった流言蜚語は関東大震災直後、東京から移動する避難民などから流され始め、東京周辺の町村には自警団も組織された。早くも2日には犠牲者が出た。虐殺された朝鮮人は2600人とも6600人を超えたともいわれる。また亀戸事件、甘粕事件もあった。
この音のない色のない映像が、長年にわたる偏見と差別が増長して生まれた暴行や虐殺の事実、そして正視しなければならない現実の世界、を知る入り口になるはずだ。
そうしなければいけない。

[映画データ]
ドキュメンタリー映画『キャメラを持った男たち−−関東大震災を撮る』(81分)
企画・製作=記録映画保存センター
製作=村山英世
脚本・監督=井上実
撮影=藤原千史・中井正義
撮影協力=国立映画アーカイブ・桜映画社
『キャメラを持った男』(リュミエール叢書6:筑摩書房、1999年)という本がある。製作者の村山英世によれば、井上実監督はこの本へのリスペクトとして映画のタイトルを決めたという。実は同タイトルの映画もあった。表記は「カメラ」だが、『これがロシアだ/カメラを持った男』(1929年:原題『カメラを持った男』)である。DVD版も出ている。井上監督はこれも見ているはずだ。

参考文献
『日本教育映画発達史』(田中純一郎著、蝸牛社、1979年)
『<普及版>関東大震災朝鮮人虐殺の記録―東京地区別1100の証言』(西崎雅夫編著、現代書館、2020年)
『シリーズその日の新聞 関東大震災』(全2巻、大空社出版、1992年)
「関東大震災における流言蜚語」(佐藤健二、『死生学研究』11号、2009年)巻末の『大正大震火災誌』(警視庁編)から抜き出した9月1日からの流言の事例・報告の詳細な表は注目に値する。

参考サイト
国立映画アーカイブ
https://www.nfaj.go.jp/onlineservice/kanto1923/
「関東大震災後における逓信事業の復旧と善後策」(田原 啓祐)
https://www.postalmuseum.jp/publication/research/...