(48)向坂逸郎邸――西武新宿線紀行 その1
[2022/8/13]

今朝は北に向かって歩行訓練を開始する。しばらくすると西武新宿線の踏切が見える。鷺ノ宮駅と下井草駅の間にある踏切のひとつである。踏切の中央から右手(鷺ノ宮駅寄り)を見ると、下り線の横に盛り土が続いているのがわかる。ここには昔、「西鷺宮駅」があったという。この盛り土は下り線にあったホームの跡だ。西鷺宮駅は1942年(昭和17)に開業、44年に閉鎖、53年にそのまま廃止(廃駅)となった。開業の目的は、同駅から北に行ったところにある東京府立第二十一中学校(現・都立武蔵丘高校)など計4校の府立学校への通学者向けだったようだ。中野区の映像資料から、当時の西鷺宮(西鷺ノ宮とも表記される)駅を見ることができる。駅舎には「西鷺宮」の看板がある。廃駅の南側には大きな農家があった。広い屋敷森があった中学の同級生のSさんの家だ。いま樹木は消え、マンションになっている。彼女は元気でいるのかな。
踏切をわたり、左手の道を歩いていく。新青梅街道にたどり着くと、北側にわが母校の中野区立北中野中学とかつては都立四谷商業(四商)だった現・都立稔ヶ丘(みのりがおか)高校の校舎が見える。高校の横の道を北に進むと、「法政大学向坂逸郎国際交流会館」のモダンな建物に出会う。そう、ここは経済学者・向坂逸郎の旧宅があったところだ。向坂逸郎とはどんな人物なのか、平凡社の百科事典『マイペディア』の人名項目から引用してみよう。

向坂逸郎【さきさか・いつろう】1897~1985(享年87)。マルクス経済学者。福岡県大牟田生れ。東大卒。九大教授となったが、1928年共産主義を宣伝したとして職を追われ、戦後に復職。労農派の論客で,日本資本主義論争などに活躍した。1951年、社会主義協会結成に参加、のち代表。日本社会党左派の理論的指導者で、三池争議にも参加・指導した。『資本論』の翻訳などがある。

石河(いしこ)康国著『向坂逸郎評伝』(上巻1897~1950、下巻1951~1985 社会評論社、2018年)という、あわせて800ページを超える本があることを知り、早速近くの図書館から借りてくる。これによると、向坂逸郎・ゆき夫妻は1952年(昭和27)5月27日に世田谷区等々力から、ここ中野区鷺宮5丁目に転居してきた。当時、向坂は九州大学教授(1960年2月まで)だった。「日本画家の作った家で、その後は全食糧労働組合が宿舎にしていた。全食糧労組は向坂に好意的で買ってもらえばうれしいということだった。500坪の敷地と三つの建屋(建坪合計80~100坪)すべてで100万円くらいの話だった。」(前出『向坂逸郎評伝』)向坂逸郎は1985年1月に亡くなり、ゆき夫人も2007年6月に亡くなる。その後、ゆき夫人の遺志により向坂家の宅地と膨大の蔵書のすべては、法政大学と同大の大原社会問題研究所に寄贈された。


「1962年10月28日鷺宮5丁目 鷺宮の自宅から西武新宿線下井草駅に向かう夫妻。
後方の高い松の木が向坂家の目印だった」(『向坂逸郎評伝』p 178より)。この
田園風景は私にとっても懐かしい。右手の奥に北中野中学がある。

『向坂逸郎評伝』では、「日本画家の作った家」としてしか書いていないが、その家は従軍画家・花岡萬舟(はなおか・まんしゅう 1901~45)が、1941年(昭和16)に建てたようだ。花岡萬舟は広島の原爆で亡くなっている。萬舟の作品は早稲田大学会津八一記念博物館が所蔵し、随時公開している。マルクス経済学者と従軍画家の間になにか接点があったのだろうか。濱本良一というジャーナリストが、「従軍画家・花岡萬舟と社会主義者・向坂逸郎に奇縁」というエッセイをある雑誌(『東亜』)に書いているが、内容は確認していない。


「戦争画の相貌―花岡萬舟連作―」展のポスター

私にも向坂逸郎というより、向坂邸への思い出がある。中学2年のことだ。中野区立八中から分校が誕生し、それが翌年独立して北中野中学になる。分校時代のある日、中学の西側の先にある大きな家を、日の丸を掲げた人たちがなにやら叫んで取り巻いていた。授業を中断し、みんなで窓から眺めると、畑から土煙があがりその中を日の丸が動いている。今回、『向坂逸郎評伝』の下巻にある年表を見ると、「1960.4.6 留守宅に右翼27名おしかける」とあるではないか。当時、福岡県大牟田の三井鉱山三池鉱業所ではいわゆる「三池争議」の真っ只中だった。1960年1月25日、会社側は同鉱業所をロックアウト、労働組合側は無期限ストに入った。向坂は組合内に「向坂教室」を開く理論的指導者だった。大牟田の街には各所に「向坂理論は三池を潰す」という看板が立てられていた。前月の3月29日には、第二組合員の就労を阻止するためにピケを張っていた数百人の三池労組員が棒や刃物を持った約200人の暴力団に襲われ、組合員の久保清(32)が刺殺されていた。
(この項つづく)