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2つの事件と206本目の映画 [2001/06/10]

彼は1912年(明治45年)6月8日、長野県埴科郡屋代町(現更埴市)に生まれた。屋代は千曲川が大きく蛇行して善光寺平にそそぐ入り口にあり、その千曲川は川中島で犀川と合流してさらに太い流れとなって北に進む。屋代の東には松代町があり、幕末の思想家、佐久間象山が自作の大砲を試射した岩山へと続く。屋代中学をへて、1931年(昭和6年)に長野師範学校を卒業。長野市の浅川小学校に教員(訓導)として勤務。1933年(昭和8年)2月4日の朝、治安維持法違反で検挙される。当時22歳。わずか、1年半の教員生活だった。

1929年から33年にかけておこった共産主義運動に関係した小学校・中学校教員への弾圧事件は、俗に「教員赤化事件」といわれている。平凡社の『世界大百科事典』の項目の「教員赤化事件」によれば、1930年(昭和5年)の8月ごろから、非公然に全国組織の教育労働者組合の準備会が結成され、11月には国定教科書反対、プロレタリア教育の建設、教員の生活擁護などをかかげて、これまた非公然に創立大会が開かれた。

教員のこれらの研究・宣伝・啓蒙活動(新教・教労運動)に対する弾圧はすぐさま始まり、「33年までに41道府県、98件、検挙された教員は七百数十名に及んだ。とくに33年2月4日以降、長野県では、66校(うち中学4)、230名(うち非教員22)の検挙、治安維持法違反による起訴29名という大弾圧がおこなわれた」。事件は「教員赤化事件」として、日本全国にセンセーショナルに報道・喧伝された。長野県では、一般に「二・四事件」と呼ばれている。(1)

彼は不起訴になったが、学校から引き離されたため、上京。小さな製薬会社に勤めているとき、作家の高倉テル(タカクラ・テル)(2)に会い、向島のスラム街にあった城東託児所の手伝いを頼まれる。高倉テルは、かつて土田杏村らの協力で信濃自由大学(後の上田自由大学)に講師として参加、上田市に在住して、長野の教育界に深く係わっていた。高倉もまた二・四事件で検挙されている。ここでの活動の間に芸術映画社の大村英之助に出会い、勧められて1937年(昭和12年)に同社の企画部に入社、以後生涯の仕事となった教育・文化映画の世界に入った。

企画部には、当時駆け出しの新劇俳優だった宇野重吉がよく出入りし、近くの居酒屋で一緒に飲んだ。また作家の中野重治もシナリオの打合せに企画部にきていて、シナリオにはならなかったが、『空想家とシナリオ』(1939)という作品を残している。

彼というのは、村山英治、私(村山恒夫)の父である。1955年、桜映画社創設、1970年、新宿書房創設。2001年4月28日に急性肺炎で死亡、享年88歳だった。去る6月8日、89歳の誕生日に当たる日に、東京新宿で「お別れの会」がおこなわれ、代表作である2本の映画『女王蜂の神秘』(1962)『色鍋島』(1973)が上映された。前者はオーストリアの動物学者フリッシュが発見したミツバチの「ダンス言語」を映像化したもの。

挨拶に立ったひとり、岡部昭彦(3)は、「いまみても新鮮であり、後年の1973年にフリッシュ、ティンバーゲン、ローレンツの3人がノーベル生理学・医学賞をもらい、世に「動物のコミュニケーション」を広く知らしめた、動物行動学についての映像的記録の先駆的名作だ」とのべた。

彼の作品分野は、社会教育、民俗、美術、古典芸能、児童劇映画、科学映画と多岐にわたり、その生涯で企画、製作、脚本、監督にたずさわった作品は205本あまりと思われる。(4)

(1) 『抵抗の記録 戦時下長野県における教育労働者の戦い』(二・四事件記録刊行委員会編、1969年、労働旬報社)。彼は匿名の証言者の一人として登場している。
『信州 昭和史の空白』(信濃毎日新聞社編、1993年、同社刊)。「ニ・四事件の周辺」では2人の事件関係者の資料と証言が収録されている。
(2) 高倉テルは1940年(昭和15年)に『大原幽学』、1952年には『箱根用水』を発表。戦後は1946年に日本共産党の衆議院議員、1950年に参議院議員に当選したが、参院選の翌日にGHQからレッドパージをうける。
(3) 岡部昭彦は科学評論家で、科学雑誌『自然』(中央公論社)の元編集長。
(4) 戦前の作品については、『来し方の記 7』(1984年、信濃毎日新聞社)、桜映画時代の作品については『桜映画の仕事1955 → 1991』『映画の旅』を参照。彼のかかわった映画については資料が不完全のため不明なものも多い。

[vol.9 2つの事件と206本目の映画(続)につづく]

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