(65)百人社の3冊
[2020/4/4]

40年以上昔のお話です。平凡社に10年在籍して退職し、その後、独立したことは前にも書いたことがある。1980年の夏のことだ。桜映画社の分室の一隅に机と電話をおいて、ひとり出版社を始めた。住所は新宿区西新宿3―3―11 杉本ビル603 であった。出版社は机と電話ひとつだけで始めることができる、と昔はよく言われたものだ。

社名は「百人社」という名前にした。いま、考えるとなぜこの名前をつけたのか、たしかな記憶がなく、その理由も判然としない。事務所があったところが大久保駅に近く、いまやコリア・タウンの一部になっている百人町があったからか、あるいはバートランド・ラッセルの核廃絶運動組織の百人委員会(Committee of 100)にちなんだのだろうか。あるいは単純に、ともかく百人の予約賛同者、定期購読者を集めて1冊の本を出そう、そんな気持があったからかもしれない。

最初の本の装丁を頼んだ編集装丁家の田村義也さんには、「社員は本人ひとりしかいないのに百人社か」と後々までずいぶんからかわれた(田村『のの字ものがたり』1996年、朝日新聞社)。この百人社の名前は、当コラムなどのHPブログの集合タイトル『百人社通信』として、いまもささやかに存在している。

今回、国立国会図書館サーチで調べてみると、1965年10月に出版された『政界群像──地方政界の俊秀たち』(佐藤仁彦編)という本が、なんと「百人社」という版元から出ていることがわかった。当時はまったく知らなかった。同サーチによれば、この百人社はその本しか出していない。しかも、価格(頒価)不明とあり、書名から推測すると、書店売りした書籍ではないのかもしれない。しかし、すべての書籍が国会図書館に納本されているわけではないので、なんともいえない。 

この百人社時代のことを思い出させてくれたのは、最近出た2つの図書のおかげである。

遠藤哲夫「おれの〈食の考現学〉」(『現代思想』(特集「考現学とはなにか」、2019年7月号、青土社)

吉見俊哉著『アフター・カルチュラル・スタディーズ』(2019年7月、青土社)

遠藤哲夫(エンテツ)さんは生活料理人・食文化史家の江原恵(えばら・けい 1932〜)さんの弟子のような人らしく、『大衆食堂の研究──東京ジャンクライフ』(1995年、三一書房)や『ぶっかけめしの悦楽』(1999年、四谷ラウンド)などの著作がある。遠藤さんはこのエッセイの中で、百人社刊の江原さんの本を紹介してくれた。

東京大学大学院情報学環教授の吉見俊哉さんは、学生時代に「劇団綺畸(きき)」に所属し、如月小春作の「家、世の果ての……」の公演(1980年6月)では舞台監督を務めている。1982年に刊行した如月小春デビュー作『如月小春戯曲集』(新宿書房)の「上演記録」の中には、若き日の吉見教授の名前が「舞台監督」として記載されている。今回の『アフター・カルチュラル・スタディーズ』には、2000年1月に44歳で死去した如月さんの追悼集『如月小春は広場だった──60人が語る如月小春』(新宿書房、2001年12月)に吉見さんが寄稿した文章が、「劇つくりの越境者──追悼・如月小春」として再録されている。

さて、百人社時代に話を戻そう。百人社刊、新宿書房発売の本は以下の3冊である。

1)田村紀雄著『明治両毛の山鳴り──民衆言論の社会史』
1981年3月31日 百人社 A5判上製 装丁は田村義也さん、巻頭の挿絵「両毛地方の風土と人々」は映画監督の松川八洲雄さんにお願いして描いてもらった。松川さんのお宅があった九品仏に絵をいただきにうかがった。『田村義也 編集現場115人の回想』(2003年、田村義也追悼集刊行会)では、私はこの時の田村装丁の作業について「古地図の地名が動いた」という文を書いている。

2)阿奈井文彦著『アホウドリの人生不案内』
1981年7月1日 百人社 四六判上製 造本は中垣信夫さん、イラストは安西水丸さん、写真は渡辺克巳さん。安西水丸は平凡社時代の同僚だ。「一流の無名人を 二流のルポライターが訪ね 三流の文化人が ここにチョーチンモチ。〈アホウドリがあなたの股ぐらをくぐりぬける!〉」とは、永六輔の帯文から、

阿奈井文彦(1938〜2015)さんとは平凡社時代からの付き合いがあった。平凡社では百科年鑑の編集だけでなく、PR誌の『月刊百科』の編集も同時にやらされていた。石子順造さんと組んで「ガラクタ百科」も当時連載中だ。そのタイトルは石井研堂の『明治事物起原』にならって、「現代事物起源」とした。最初は自分で原稿を作り、連載を始めた。主に新聞、そして週刊誌の切り抜きを集め、見開き2頁の「現代事物起源」を1978年から始めた。しばらくして一応、形ができたので、あとは阿奈井さんにバトンタッチ。誕生したモノ、始まったモノは記録されるが、やめたモノ、消えたモノはえてして記録されることが少ない。このため新聞切り抜きサービス専門の内外切抜通信社という会社に頼んで月1回ごとに希望する記事の切り抜きを送ってもらった。この内外切抜通信社、検索するといまも健在とわかり、うれしくなった。連載はその後続いて、阿奈井文彦編『現代事物起源──生まれたモノ・消えたモノ 1978~1987』(平凡社、1988)として出版された。

3) 江原恵著『【生活のなかの料理】学』
1982年2月20日 百人社 A5判並製 装幀は杉浦康平さんと谷村彰彦さん、イラストは渡辺冨士雄さん。「生活料理」「生活料理学」「生活のなかの料理学」と、著者の揺れがタイトルの表記・デザインに出ている。江原さんは1981年に、生活料理の実験店“しる一(いち)”を渋谷東急本店前のビルの中にオープンしたところだった。

百人社を始めてしばらくすると、当時まわりは映画屋さんばかりで、専従の編集者のいない新宿書房の編集も並行して手伝うことになり、1981年の10月には、『野中の一本杉──市川房枝随想集Ⅱ』(造本=中垣信夫)を出した。そして、1982年には、前述の百人社の江原恵著『【生活のなかの料理】学』(2月)、如月小春著『如月小春戯曲集』(6月、装丁=赤崎正一)、『市川房枝というひと──100人の回想』(9月、造本=中垣信夫)、原秀雄著『日没国物語──新ユートピア』(10月、装丁・イラスト=たむら しげる)、野本三吉著『風の自叙伝』(10月、装丁=田村義也)、遠藤ケイ著『雑想小舎から』(11月、イラスト=遠藤ケイ、装丁=吉田カツヨ)、立木鷹志著『虚霊』(11月、造本=中垣信夫)と7点を出版した。この間の5月には百人社を新宿書房に統合して、事務所も桜映画社から離れ、千代田区九段南に移転した。『如月小春戯曲集』は百人社がない時代の、九段南から生れた最初の新宿書房の本である。

『百人社通信』のこと

もう一度、百人社の本のことに戻ろう。百人社では新刊本や注文のあった本に挟む(投げ込む)小冊子『百人社通信』をわずか2号までだけだが出している。この小冊子のことを「月報」「付録」「栞(しおり)」と呼ぶこともある。単行本の中や見返しに同梱(投げ込み)される別刷の印刷物である。
『百人社通信』第1号1981年6月15日 縦180ミリ×横113ミリ 16p  定価=100円
これは阿奈井文彦著『アホウドリの人生不案内』に投げ込まれた。目次内容は以下のようになっている。
*「モッ」と粋の相関関係 安宇植 
*還俗の生きざま—藤岡慶秋さん 野本三吉 
*民衆言論の海溝 田村紀雄
*子ども番組史を掘る 佐々木守 
*渋谷“しる一”開店舌代 江原恵
*パリのチャイナタウン考 山口文憲
そして、最終の16頁には、●発行人=村山恒夫、●題号の題字=田村義也、●印刷製本=理想社印刷所、と明記されている。そして、この通信は活版印刷である。

『百人社通信』第2号 1982年1月1日 16p  定価=100円
*クマさんの唄—阿部彬さん 野本三吉 
▲書評再録(その1)『明治両毛の山鳴り』毎日新聞(1981・4・20)
*「モッ」と「恨」の相関関係 安宇植 
*冬崖の死 酒井忠康 
△近刊 江原恵『料理の生活学—江原式新日本料理のすすめ』
*アイヌの居留地・多蘭泊コタンを訪ねて 大塚和義
△市川房枝の本 3冊 好評発売中
*もう一つの日韓交流、この一年 阿奈井文彦
▲書評再録(その2)『アホウドリの人生不案内』(信濃毎日、ブルータス)
小冊子の目的はいわば本を購入してくれた読者への通信で、既刊の書評、評論、これから刊行予定の本の著者によるエッセイなどを掲載することである。この2号で終わった『百人社通信』は誌名を『日没国(にちぼつこく)通信』とかえて再出発する。この誌名は1982年に出た、原秀雄さんの『日没国物語』からとったものだ。『日没国通信』1号は1983年1月31日で、最終号の第12号は1986年5月10日に出ている。

   

1970〜80年代はPR誌ブームだったという。出版社のPR誌『図書』(岩波書店)、『みすず』(みすず書房)、『未来』(未来社)そして『月刊百科』(平凡社)だけでなく、大手企業のPR誌『エナジー』(エッソ)、『グラフィケーション』(富士ゼロックス)などが、豊富な予算のもと、贅沢でビジュアルな内容で発行していた。

零細出版もなんとか読者に声を届けようと、こうした小さな月報を新刊書に挟んで出していたのだ。まだワープロもない、ネットもない時代のことだった。ところで、新宿書房では、刊行中の「宇江敏勝 民俗伝奇小説集」(全10巻のうち9巻既刊)の第7巻『熊野木遣節』(2017)、第8巻『呪い釘』(2018)、第9巻『牛鬼の滝』(2019)に月報を投げ込んでいる。