(29)駆けぬけて六十余年、杉浦康平と仲間たち……
[2019/7/13]

春の叙勲でグラフィック・デザイナーの杉浦康平さんが旭日小綬章(芸術文化功労)を受章された。2019年7月10日、東京・千駄ヶ谷のレストランで、これをお祝いする会が開かれた。祝賀会のタイトルは「駆けぬけて六十余年、杉浦康平と仲間たち……」。

出席は、杉浦康平さん・祥子さんご夫妻、杉浦事務所の卒業生の中垣信夫、辻修平、海保透、鈴木一誌・文枝さんの各氏ら19人と、これまで杉浦さんと一緒に仕事をさせていただいた編集者など24人であった。司会は赤崎正一さん(元杉浦事務所、神戸芸術工科大学教員)。わたしも、挨拶をした。*

こんばんは。編集者の村山恒夫です。老編集者、まだ消え去りもしていませんが、まちがいなく老兵です。

杉浦康平先生、いや杉浦康平さん、奥さま。今回の受章、おめでとうございます。

杉浦事務所の内々のお祝いの会に、旧平凡社から私も含め山口稔喜、前田毅、及川道比古と4人もの編集者をお招きいただき、ほんとうにありがとうございます。

私が杉浦さんに初めてお会いしたのは、1972年です。もう半世紀も前、平凡社入社2年目のことです。

「百科事典の平凡社」といわれたその看板の『世界大百科事典』の内容が劣化し、毎年やってきた小手先の象嵌訂正などの対応では限界がありました。

それに後続の小学館ジャポニカの攻勢や新規参入の朝日新聞社(結局の1973年のオイルショックで撤退しましたが)の百科事典の企画発表などに危機感を持ち、『世界大百科事典』の増補として、また将来の新・世界大百科事典までのつなぎとして、年版の「百科年鑑」の構想が出てきました。

平凡社の事典や雑誌『太陽』のデザイン・装丁は、戦前の陸軍参謀本部、対外宣伝グラフ誌『FRONT(フロント)』の人脈から、原弘さんらのNDCなどにお願いしてきました。

新しい百科年鑑のブックデザインに白羽の矢がたったのは杉浦康平さん。その杉浦さんを平凡社に呼んできたのは、『百科年鑑』初代編集長の小林祥一郎さんと、ここにいます美術担当だった前田毅さんです。小林さんは以前、新日本文学会の月刊雑誌『新日本文学』の表紙デザインなどで杉浦さんのお世話になっていました。

なにしろ「百科事典の平凡社」です。伝統があり堅固な、しかし停滞しきっている社内風土。その土壌の上に、杉浦さんと当時中垣信夫さんら杉浦事務所のスタッフが、まさに舞い降りてきたのです。**

杉浦さんの登場には、社内では冷ややかな空気があり、印刷現場では相当な反発がありました。

平凡社のグループには東京印書館、地図精版などがありました。百科事典、各種の事典出版の経験から、電算写植(CTS)を早くから導入し、独自の書体をもっていました。

しかし、杉浦さんは本文見出しには写研さんの写植文字を使い、カラー別刷や特集ページはすべて写研文字です。赤字訂正はすべて切り貼りの作業です。

いまでも思い出すのは、深夜の田端の線路際にあった校正所を杉浦さんとふたりで訪れた時のことです。中年にさしかかった職人さんがひとり、われわれを待っていました。ここで杉浦さんはほめまくるのです。「いいね、でももう少し、ここの色を足してくれない」「ああ、うまいけど、もうチョビ」「いいね。もう一回」何回も色校正をするうちに、とうとう用意した校正紙がなくなります。そして職人さんが言います。「もう一回やりましょう」

  
[日航機乗取り]『百科年鑑1978』 [【ある日】1978]『百科年鑑1979』


別刷の色校正の出張校正で、杉浦さんを先頭に杉浦事務所と年鑑編集者が朝霞にあった地図精版に大挙して押し掛ける。

ここ地図精版も同じです。最初は反発していた製版の現場がいつしか杉浦ファンに。インクを練る(調肉[ちょうにく]といいます)職人さんが自分の仕事が評価されるや、率先して色校の段取りまでを提案してくれるようになりました。その現場から、後にぴあマップの森下暢雄さん、ジェイ・マップの白砂昭義さんが独立し、いまや日本の地図製作の中心となって活躍しています。

これは、杉浦さんが偉大なデザイナーであるだけでなく、優れた教師、先生だからです。杉浦さんにとって、印刷物であってもすべて自分の作品です。少しの妥協も許さない。現場の製版校正担当者を味方につけるためには、どんな努力もするのです。

従来の大量の文字だけだった百科事典の内容をいかに視覚化し、フロー化し、構造化するか。杉浦さんは、これを毎年、さまざまなダイヤグラムなどで実践していきました。いわく1年間の百科事典、ジャーナルな百科事典を目指して。

立花隆さんのロッキード事件、高木仁三郎さんの原子力問題ガイドブック、赤瀬川原平さんの世相マップ・・・・などなど。***


[原子力問題ガイドマップ]『百科年鑑1978』


杉浦康平さんの仕事をどう形容したらいいのでしょうか。私は「杉浦康平山脈」とでも名付けたいのです。それも火口には大きなカルデラ湖や大草原を抱える火山です。カルデラの縁には外輪山がある。これは杉浦さんのたくさんのテーマかもしれないし、あるいはお弟子さんたちの峰かもしれない。

杉浦さんはすべてのお弟子さんたちを抱擁し、またすべてをライバルとする。中垣信夫、鈴木一誌、赤崎正一、谷村彰彦……。そして私はいま杉浦さんにとっては孫弟子となる人たちとも仕事をしています。

来年88歳を迎える杉浦さんには、「杉浦康平山脈」から下りる、つまり「下山(げさん、げざん)」という観念がない。下りたかと思うと、峠までに着くやまたちがう峰に向われている。そしてカルデラの周辺を逍遥されています。

杉浦さん、いつまでも、いつまでもお元気で!

*当日の挨拶を復元、訂正、加筆している。

**『時間のヒダ、空間のシワ…[時間地図]の試み 杉浦康平ダイヤグラム・コレクション』(鹿島出版会、2014年)参照。村山恒夫「紙の「マルチメディア」実験 『百科年鑑』生誕クロニクル」を収録。

***『百科年鑑』の別刷を抜いてまとめたものがある。『世界大百科年鑑スペシャル[1973~79]』である。これは、1980年5月に非売品として刊行された。この年の6月に私は平凡社を退職したが、最後の仕事だ。製作は宣伝課、編集は私、レイアウトは吉田カツヨさんで、1973~79年のバックナンバーを杉浦さんには内緒で切り取って合本したもので、いわば宣材だ。