(6)村山新治作品映画評の落ち穂拾い
[2019/1/25]

2018年5月に刊行した『村山新治、上野発五時三五分 私が関わった映画、その時代』に引用・再録できなかった村山新治監督作品の映画評を紹介しよう。
「警視庁物語」シリーズは全24作品。そのうち村山新治は7作品を監督。なかでも『顔のない女』はこのシリーズ初のフィーチャー(長篇)。プロデューサーの斉藤安代と脚本の長谷川公之は「これがシリーズの頂点だ」と自画自賛したという(本書282頁参照)。『七つの弾丸』は橋本忍の脚本が素晴しい。中川信夫監督が脱帽した村山演出(同288〜289頁)。橋本忍は2018年7月19日に亡くなった(享年100)。池袋の新文芸坐は「追悼・橋本忍」(9月1日〜9月10日)を企画して、この『七つの弾丸』を上映した。
最後に『故郷は緑なりき』。本書の「参考文献・データベース」の中で取り上げた(401頁)川本三郎・筒井清忠『日本映画 隠れた名作』の中で、筒井は「日本で作られた純愛映画で最高級のものだとおもいます」と絶賛する。

『警視庁物語 顔のない女』(59)

1) 双葉十三郎*1

新映画評
快適なテンポの推理劇
警視庁物語
『顔のない女』(東映作品)
東映に「警視庁物語」という連作がある。捜査一課の人たちが犯人をつかまえるまでの苦心を、ドキュメンタリー的に描いたもので、無駄に刺激的な犯罪スリラーが多い昨今、いつも地味ながら堅実な成果をおさめている。
今回はその第9話にあたるが、このシリーズのなかでも優秀な出来ばえ。脚本の長谷川公之は医大を出てずっと警視庁の鑑識課に勤務していたから、こういう材料は十八番。監督の村山新治は東映教育映画でなかなかいい感覚を示していた新進で、このシリーズはこれが4本目。
土曜日の午後を楽しむ人々。休みに当たった刑事たちもそれぞれ遊びに出かけるが、捜査一課への連絡は忘れない、というところから場面がはじまり、野球少年たちが荒川土手で女の胴体を発見するのが、事件の発端となる。当局は直ちに活動を開始する。課長松本克平、主任神田隆、部長刑事堀雄二、刑事花沢徳衛、その他捜査一課の連中がレギュラーで、特別なスターを使っていないのもこのシリーズの特色である。
胴につづいて対岸から両足が発見され、包んだ新聞紙や解剖の結果から、殺された日時、年齢、身長などが推定される。足の爪を染めたエナメルの製造会社をつきとめるが、誰に売ったものか容易にわからない。一方、犯行があったと思われる夜、新荒川大橋で怪しい自動車をみたという報告が入り、その自動車がバラバラ死体を川へ捨てたのではないかとの推定が生れるが、ナンバーの末尾の二字がわからないので、根気よく調べまわらなければならない。さらに、死体の他の部分がどこへ流れたかを調べるため、問題の新荒川大橋の上から犬の死体を投げこみ流れ工合をたしかめる。
といった捜査の経過が、てきぱきと快適なテンポで展開されていく。村山監督は環境描写に味をみせ、適度のユーモアを忘れず、人物のリアクションのつかみ方もこまかく、神経のゆきとどいた演出ぶりである。
やがて首も発見され、刑事たちは隆鼻術に使った象牙や、歯のブリッジの出所をつきとめるために足を棒にする。そしてやっと被害者の氏名や身分がわかる。そこから容疑者がうかんでくるが、有閑令嬢(佐久間良子)との結婚をねらう学生バーテン、逃亡を企てて事故死する問題の自動車の運転手、ミュージック・ホールの踊り子(小宮光江)だの、ダルマ船酒場の女(星美智子)など、いろいろな人物の生活の簡潔な点描も生きており、エロ写真売りの男(小林寛)の扱い方なども面白い。
すべて誇大な描写を避け、自然で虚構を感じさせないところが成功の一因でもある。最後に犯人がつかまるまで、この種の作品にありがちな論理の飛躍やツジツマの合わぬ場面がなく、がっちりと展開されている点も賞めたい。
捜査陣は手なれた連中がそろっているので文句なし。とくに生れた息子の名前が犯人と同じと知ってクサる花沢徳衛の中年刑事が、たくまざるユーモアをまじえて出色。[80分、2月18日封切]
(『週刊東京』1959年2月21日号)

*1 双葉十三郎(ふたば・じゅうさぶろう1910~2009)は映画評論家。本書でもふれているように、いち早く村山の最初の監督作品『わんぱく時代』(56)を映画評で好意的にとりあげている。

2) 虫明亜呂無*2

『顔のない女』(東映映画)
「警視庁シリーズ」の第9作である。
土曜日の午後、働く人々はみんな仕事から解放されて、街にあふれる。彼らはこの平和なひとときを、憩いと喜びのうちに過そうと思っている。この若い刑事もそんな一人なのだ、というナレーションとともに、のどかな昼すぎの雑踏が俯瞰される。彼は恋人に愛をかたり、捜査主任は子供づれで動物園にゆき、ある刑事は生れでてくる愛児をまちあぐねて、場末の産院で期待に胸をはずませている。
警視庁という機構内の諸人物を、私たちとかわらない一市民にもどした姿でとらえた冒頭の部分から、この映画の第一の特色がはっきりとうちだされる。庶民の哀歓が交互におりなす生活のリズム、地味で平凡だが積極的な職場への参加、それらが渾然となって、作品に強靭なすじがねをとおしている。
と、同時に、社会の一隅ではだれにもしられずに凶悪な殺人がおこなわれた。カメラはただちに屍体発見の現場に焦点をあわせてゆく。極端なクローズ・アップやロングをすて、つねに一定の距離をたもって被写体をとらえる事件報道らしい一貫とした描写方法に、第二の特色があらわれてくる。手がかりは屍体にのこされた卵巣手術の痕跡、隆鼻術の象牙、サンプラ・ブリッジ。猟犬のように刑事たちは八方に散ってゆく。
丹念な事実の蒐集と、それに基づいた直截な映画的表現、ゆきとどいた演出処理上の計算、無駄のないショット構成、流しワイプを活用した流動感など、この映画からうけとる感銘は、よく書きこまれたルポルタージュを読んだあとに覚える乾いた爽快さに通じている。
それはまた、事件を事件としてのみ追うカメラ・ワーク(ラスト、真犯人を追い込む荒々しい、前進移動)にも、冴えた情熱を与えているようだ。結果としては、犯罪捜査という主題とは別に、現代生活、庶民感情のさまざまな断面や風俗の陰翳ゆたかな模様があざやかに浮きぼりされ、虚飾をけずりおとした線のふとい現実感をスクリーンにみなぎらせた。
二段にも三段にも構成されたシナリオの展開にのって、妾くずれ、ハンカチ・タクシー、猥写真売り、もぐり屠殺夫など日かげ者の生態がそれぞれ暗い影をひいてよぎり、謎ときのおもしろさは倍加し、観客を最後までひきずってゆく。活躍する刑事たちの人間像の生気溌溂さもみごとだが、なによりもマス・メディア共通の非情な観察眼が画面のすみずみまでゆきわたり、庶民の日常感覚に直接訴える様式美をつくりだした。作者は通俗に平易な言語で現代生活のありようを語っているが、なにを描写の対象にするかという選択肢はたいへんきびしい。埃っぽいが独特な芯をもった生活リアリズム。東映のある種の現代劇に共通した貴重な魅力が内に充ちあふれた作品で、大衆映画の新しい一つの方向を予告しているようである。
(『映画評論』1959年4月号)

*2 虫明亜呂無(むしあけ・あろむ1923~91)はエッセイスト、評論家。映画、文芸だけでなく、競馬、スポーツまであらゆるジャンルで縦横の筆を振るった。

3) 岡本博*3

大衆映画時評
(前略)
東映の名物・警視庁物語第9話『顔のない女』も出色であった。やたらに勤勉で正義派ぞろいの初期警視庁物語に比べて、刑事たちが顔ぶれを変えないままで、どこかダルな態度を見せはじめているのもシリーズとしての着実な進歩が認められる。バラバラ死体の義歯や隆鼻術の骨をもって、歯科医や美容院をしらみつぶしに歩く刑事たちの行動だけで、もたしたような作品だ。よほどのドキュメンタリーと見まがうばかりの練度である。が、いわゆるセミ・ドキュではなさそうだ。あくまで東映番組というルーティンは外していない。花沢徳衛という、大衆映画のファンなら、その刑事の名をきくだけでニヤリとする名優の巧まない笑いや、腐乱した死体解剖の一方でラーメンを食う捜査主任が鼻でちょっとかいでみてから吸いこんだりする素朴なユーモアが、素質のニュアンスで事件の進行のサスペンスに組合わされ、それを強めている。
コミック・スリラーというのが流行で、大監督がうんと凝って作ったりしているが、まだ『顔のない女』くらいの高級なサスペンスまで達していない。長い年月に売り込むというやり方で、鍛えられた商品にはかなわないのである。
(後略)
(『中央公論』1959年4月号)

*3 岡本博(おかもと・ひろし1913~2002)は映画評論家。毎日新聞記者から『毎日グラフ』『サンデー毎日』の編集長などを歴任。

『警視庁物語 一〇八号車』(59)

岡本博

“週刊映画の迫力”
東映警視庁物語シリーズ
東映の名物「警視庁物語」シリーズが最近第10話『一〇八号車』を出した。シリーズには「旗本退屈男」の25話、「多羅尾伴内」の19話など、これより長いものもあるが、たとえば東宝の「三等重役」ものにしてさえ「警視庁物語」シリーズの寿命の長さのもつ意味とはだいぶちがう。いわばこれはニューズストーリー風の性質をはっきり身につけているシリーズであって、週刊誌と同じようなテンポもそこから出ている。いかにも週刊映画にふさわしい唯一のシリーズである。

ドキュメンタリー・タッチ
似たようなシリーズではTVに『事件記者』などがある。中心の登場者が常に同じ顔ぶれをもった小集団であること、彼らが従来のこわばった英雄でないこと、千円以下の借金があり、昼めしはラーメンを食い、仲間同士が善良で友情にあついこと、自分をいちばん平凡な人間だと信じている観客にも、そのままでスクリーンの中の連中と入れ替われると感じられること……などが、共通した性格として両方にある。
福田定良説によると、そのようなところに注目すべき新しいドラマツルギーがあることになるが、それは別項の問題として、このところ「警視庁物語」の、特に第9話『顔のない女』などには、身の締まるような展開のあとが認められる。最も優れたセミ・ドキュメンタリーにほとんど匹敵する緻密な迫力である。
第10話の『一〇八号車』でも、ただ山のような書類を調べて調べつくして、犯人の自動車のナンバーを割り出して行くというだけの場面のつみ重ねに、異様なサスペンスをつくり出す演出の方法が見える。これは第9話の、死体の義歯や隆鼻術の骨などをもって、コツコツと地味な仕事に歩き回る刑事たちの足の動きそのものから盛り上がるサスペンスにはおよばないけれど、質的にはかなり高級なドキュメンタリー・タッチに接続しつつある方法であった。網の目をひろげ、ひきのばし、せばめ、切りつめ、締めあげるという黙々としたコースには、良質なユーモアを伴った迫力がある。

超人物語だが本物にちかい
あるいはこういうユーモアも福田説の延長から当然帰納されるものかもしれないが、当面、実のところ相当うさんくさいしろものである。『事件記者』など、新聞記者から見ると、歯の浮くようなキザなやつばかりだから、「警視庁物語」の刑事たちも、本物の刑事の眼にはくすぐったいほどの忠臣ばかりと映るにちがいない。さもなければ、噂にきくオフラナの隊員以上の超人である。そのうえ、この警視庁の刑事連はクレムリンの警備兵にはないという血も涙もたっぷりしているだけに、よほどのスーパーマンぞろいでなければこのように忠臣であり得るはずがない。そのへんにどうもうさん臭い超人物語の趣きがあるわけだがしかし映画としてみると『事件記者』と同工異曲のようでいながら「警視庁物語」は遥かに本物にちかい。

行動を主軸とする物語
それは裕次郎に次ぐ隠れた人気者である我が林刑事(花沢徳衛)が指摘するように、『事件記者』が主として警視庁記者クラブの小世界に限られた仲間同士の雰囲気描写に終始しているのに対して、東映「警視庁物語」は初期の活劇から、そしてその第9話や第10話に圧縮的に表現されたように、何よりも「行動」を主軸とする物語なのである。
『事件記者』が最近ようやく視聴率が落ちはじめたと伝えられ、事実また魅力を失っている反面、逆に「警視庁物語」が次第にドキュメンタリーの新しい領域に踏み入って、いよいよ面白さを高めているのもいわれのないことではない。
週刊誌の編集者としても、こういう「警視庁物語」シリーズには教えられるところが少なくない。いうまでもなく日本映画は、週に1社が2冊ずつ発行する週刊映画である。芸術主義の批評家のいう、そのアナーキーな製作に、むしろ私は日本映画独特の発達の道があると信じているものだが、少なくともいままでのところ、東映映画はかなりの正確さで週刊誌ブームの混乱にひとつの方向を暗示しているように思われる。

スクープのスタイル
週刊誌ブームはいま始まったようにいわれるけれど、活字のブーム以前にフィルムの週刊ブームはすでに数年前から存在していたはずだ。その第1次週刊映画ブームが東映の独走という結果で終りかかった時に、第2次週刊誌ブームがはじまったと見てよい。現在、どの週刊誌が生き残るかが問題になっている。いろんな憶測が立てられるが、とにかくそのひとつが、ニューズストーリー的な「警視庁物語」シリーズに代表されるスクープのスタイルであることにまちがいはなさそうである。
いったいどの週刊誌が『一〇八号車』の張りつめた調査の静かさで締っているか、あるいは『顔のない女』の歩いて歩いて歩いて……という徹底した刑事の行動の緊張をもっているか、なのだ。なぜ「警視庁物語」シリーズだけが(沢島忠の時代劇を加えてもいいが)そうなり得たか。
東映自体の中にそういう近代化はまだまだ浸透し切っていない点にも別項の問題がある。
(『図書新聞』1959年6月22日号)

『七つの弾丸』(59)

南博*4

芸術品としての“政治もの”邦画にも現われる
このごろ見た映画のいくつかについて感想を述べるまえに、まず、最も現実的なことについて一言。
「テレビ攻勢とかなんとかいっても、やっぱり映画は衰えないね」といってる人でも、邦画各社が最近発表した本年度上半期決算報告をみれば、一応考えこむだろう。こまかい数字はぬきにして、株主配当だけをみても、松竹と大映が三分減配の一割二分、日活がおなじく三分減配の一割、東宝がようやく一割五分据置き。これにくらべて、東映だけが二割据置きだけで独走し、その上、近く第二東映を発足させて。いわゆる第七系統をつくろうという勢いである。

実質的に面白い東映もの
テレビ、スポーツ、旅行など余暇活動が映画以外の領分に流れてしまうことは当然で、その影響は、各社とも同様に受けているはずである。ところが、なぜ東映だけがマイナスの影響をこうむるどころか、前年同期をはるかに上回る成績を上げているのだろうか。精密な分析をすれば、東映の商魂その他、いろいろな要因をわり出せるが、とにかく、作品の内容だけみても、粗製の安売りという面はあるにせよ、実質の「面白さ」があることはたしかだ。その「面白さ」というのも、毎週の2本立てが、平均して面白いのであって、そこに他社をひきはなす強味がある。その2本は、講談全集プラス推理小説集みたいなもので、どの1冊がとびきり面白いというのではなく、ずらっとならべてみると、みんなそれ相応に読ませる、といったわけである。
しかも、最近の中村錦之助主演『織田信長』と、三国連太郎主演『七つの弾丸』の2本立てになると、通俗的な面白さだけではない。錦之助の信長は、個性の強い若い俳優が、戦国時代の英雄青年を力いっぱいに演じてみせ、そこにやはり一種のスーパーマンの魅力を感じさせる。強いドーラン化粧でカブキ的な演技をしていながら、現代の若い人たちに、共感できるテンポに乗っている不思議さがよい。
それにしても『信長』が興行的に当たったのは、やはり、現代青少年のなかにひそんでいる「英雄待望」の心理を、代償的に満足させてくれる一面があるからだろう。
ところで、この『信長』とならんだ『七つの弾丸』は、小品のようでいて橋本忍のシナリオ、「警視庁物語」シリーズで力量をしめす村山新治の演出になり、銀行ギャングの犯人だけではなく、被害者の生活を、ちみつに描いた作品である。この作品にかぎらず「警視庁物語」シリーズでも、ドキュメンタリーの手法を、暖かな情感でいろどる試みがされているのである。それが、今日のマス・コミが押しつけてくる、非人間的な冷たい報道のはんらんから逃れようとする受け手にとって、休息の機会を与えるのだろう。

どんでん返しの手法も必要
この作品の味わいにくらべると、ヒッチコック演出『北北西に進路をとれ』などは、彼が手持ちのテクニックを全部使って、これでもか、どうだとばかりに観客に迫ってくる。たしかに「壮観」ではあるが、どうも「毎度お古いところで」の感なきを得ない。しかし、こういう、仕掛けばかりで思想もなにもない映画作品も、またテレビ時代にはふさわしいのかもしれない。テレビのミステリーとか、推理ものは大部分、短い時間で安易な解決をつけるために、やっぱり、ヒッチコックをまねた、どんでん返しでつなぐほかないからだ。
しかし、邦画にも『人間の壁』のように政治映画とよんでも差しつかえない作品が出てきた。「政治映画」ということばを使うと、山本薩夫監督は困るかもしれない。しかし、ここでいうのは政治を正面からとり上げて、しかもむき出しの思想宣伝におわらない芸術作品としての政治映画である。『人間の壁』は、教育が、左右いずれの立場にせよ政治によって動かされ、そのことが教師たちだけでなく、親にも、こどもにも、深刻な影響をおよぼしているすがたを描いている。とりわけ、こどもと尾崎先生の心が通いあうところが美しい。ただPTAの悪玉ぶりはまだしも、先生方のなかで、一条先生を、まるで「色悪」みたいにしたために、「善玉」の先生たちとコントラストが強すぎて、現実ばなれがした。この作品には、教育が政治に動かされるのではなく、教育こそ政治を動かす精神の場ではないのか、という、教育者の立場からする根本の反省が十分とり上げられていない。この反省が作品の底を一貫して流れていれば、立場のいかんを問わず、もっとひろく国民の胸に訴える政治映画になったと思う。無理解な上映禁止の動きにいじめられている独立プロの力作だけに、いっそうそれを惜しむのである。
(後略)
(『朝日新聞』1959年11月9日)

*4 南博(みなみ・ひろし 1914~2001)は社会心理学者。一橋大学教授などを歴任。

『故郷は緑なりき』(61)

田中眞澄 *5

(前略)
ところで、いまでも汽車通学はあるのだろうか。四十年前の高校生には確かにあった。私はそうでなかったが、同級生にはいた。大都会の電車と違って、地方都市を通る汽車は本数が少ない。1時間に1本か2本、となれば、毎朝同じ顔ぶれが同じ列車に乗り合わすことが多い。
『故郷(ふるさと)は緑なりき』という映画があった。1961年。汽車通学で知り合った男女の高校生の純愛物語。悲しい結末。セーラー服のヒロイン佐久間良子は、いまや遥かな伝説である。顧みて日本映画からこのような青春映画が消え去って久しい。近年再上映されたとも聞いていない。*6 監督は村山新治。今日、過去の映画の再評価の機運はあっても、“作家主義”の視点では“発見”される可能性は低い。この国が惜し気もなく棄ててきた過去の文化のささやかなる一例か。
(後略)
(「汽車の匂いがあった頃」『本読みの獣道』稲川方人解説、みすず書房、2013、より)

*5 田中眞澄(たなか・ますみ1946~2011)は映画・文化史家。小津安二郎研究の著作で知られる。本稿「汽車の匂いがあった頃」の初出は『ユリイカ』2004年6月号。
*6 その後、2009年10月、神保町シアタ―の「川本三郎編 昭和映画紀行~思い出は列車に乗って~」で『故郷は緑なりき』が上映された。また2015年2月、ロケ地である新潟県長岡市の「長岡アジア映画祭」でも上映されている。

補足すると、この『故郷は緑なりき』は1965年に日活でリメイクされた。『北国の街』(監督=柳瀬観、原作=富島健夫[「雪の記憶」より]、出演者=舟木一夫、和泉雅子、山内賢)である。ロケ地は長野県飯山で、飯山線がその舞台となっている。脚本は後にテレビドラマ『北の国から』(1981~2002)を書いた若き日の倉本聰。なお、『北国の街』は*2で紹介した、2009年10月の神保町シアタ―「川本三郎編 昭和映画紀行~思い出は列車に乗って~」では、『故郷は緑なりき』に続いて上映されている。