(20)仕事
[2018/1/26]

 女子大での非常勤英語講師の仕事も、この3月でいよいよ終わりになる。昨年秋に古希を迎え、めでたく(と言うべきか)定年退職することに。30年以上にわたる長い教師生活となった。自分としては、よく続いたな、と正直驚いている。何事も、長続きのしない性格にしては、上出来というべきか。

 他人の仕事遍歴など、ご興味ないかもしれないが、自分自身のこれまでのささやかな軌跡をふりかえる作業とわりきり、書くことをお許しいただきたい。

 さて、社会人になって、はじめての勤めは?わたしの場合、3月に大学を卒業後、同じ年の6月はじめ、ハワイ大学大学院に留学した。1970年のことだ。まだ、日本は貧しく、自費留学など、少なくともわたしには夢のまた夢だった。幸い、アメリカ政府からの全額奨学金が、2年間支給されるというチャンスが巡ってきた。途中、父ががんで亡くなり、その前後をはさむ1学期を休学したが、ことばの壁に四苦八苦しながらも、なんとか無事、修士号を取得して帰国することができた。

 帰国後は、東京に暮らそうと決めた。ふるさとの九州にもどり、福岡にある母校で教える道を追求してみようという気には、なぜかならなかった。新しいことを、知らない場所で始めてみたかったのだ。それでいて、仕事というものは、どうやって探すものなのか、皆目わからない。

 留学中、ホノルルで知り合った日本人女性のMさんは、日本語教授法を専攻されていた。もうすぐ修士号取得になるという頃、キャンパス近くの彼女のアパートを訪ねたことがあった。アメリカのどこかの大学で、日本語を教える就職先を見つけなければならない時期だったのだ。彼女は、100校近くの大学に、履歴書(英語ではレジュメとかヴィタと呼ぶ)を送り続けるという。わあ、すごいな!と感心すると同時に、仕事探しというのは、そんな風に自ら手紙を送り、相手に自分の存在を知ってもらう努力をしなければならないものなのだ、とはじめて知った。もっとも、それは非常にアメリカ的な仕事探しのアプローチだったかもしれないが。

 もし、日本で、わたしが見ず知らずの大学や会社に、勝手に履歴書と応募の手紙を送ったとして、ことばは悪いが、おそらく洟もひっかけてくれないにちがいない。たぶん、完全な無視だと思う。「これこれ、こういう事情で、現在募集は行っていません。残念ですが、ご希望にそうことはできかねます。書類はお返しいたします。」なんて返事が来れば、いい方だろう。

 Mさんみたいに、自分のしたいこと、つきたい職業がはっきりしていれば、よし、わたしも勇気を出して、いっちょう彼女の真似をしてみるか、と思ったかもしれない。が、わたしには、自分の求める仕事のイメージがさっぱりわかない。一般企業、できれば名のある一流企業がよろしいに決まっているが、で、果たして自分のような田舎者が勤まるものなのか。わたしにできる職域など、あるものなのか。自分にわずかでも売れるものがあるとすれば、それは、2年間にわたるアメリカ留学の経験ぐらいだ。達人とまではいかないものの、まあまあ、ある程度の英語をあやつれる。それしかない。

 東京に暮らし始めてまもなくのこと、相談できる知人も、まして有力なコネなどもない。英語を使える仕事ということで、深い考えもなく、とにかく手っ取り早く、英字新聞を買うことにした。求人広告を見ることにしたのだ。すると、編集助手求むという欄が目についた。それも、その英字新聞の編集部が探しているという。これかな、ウン、これに当たってみよう。

 今となっては、どういった手順をへて、面接にまでこぎつけたものか。小さな部屋で、アメリカ人男性を含む数人の編集者たちに、インタビューされたことを覚えている。そして、採用された。

 嘱託の身分なので、朝は10時ごろまでに出社し、4時ごろには帰っていいといった条件だったような気がする。仕事の中身は、電話番、ファックス記事の受け取り、企業などから送られてくるプレスリリースに目を通す。そんな程度だったと思う。周りの記者さんたちは、記者会見に出かけたり、それぞれの得意テーマに沿って、記事をものにすべく、取材に散っていく。そして、夕方、持ち場にもどり、タイプライター(その当時は、まだワープロもパソコンもない)に向かって文章を作り、担当のデスクに渡す。デスクの編集を経て、OKとなった英文記事は、印刷に回っていく、といった段取りだったと思う。それらの活気ある動きを横目にしながら、わたしはといえば、もっぱら、大きな窓ガラスを通して見える、緑に囲まれた美しい皇居の一角を、ぼんやりと眺めているだけだった。

 社会人になってはじめての仕事は、こんな具合だった。24歳のころだ。そして、9か月後、わたしは次の仕事に移っていった。(その話は、またの機会にいたしましょう。)


みかんを食べにくるメジロ