(28)東京国際映画祭で東欧を見る
[2016/12/17]

 今年(2016)の東京国際映画祭では多くの日本映画と特集のインドネシア映画を見た。日本映画では、片渕須直監督の長編アニメ『この世界の片隅に』(11月より劇場公開)が一番良かった。第二次世界大戦中に広島から呉に嫁いできた若い女性の日常生活を丁寧に描いている。私の周囲でもこの映画の評判は上々で、現在日本で大ヒット中のアニメ『君の名は。』よりも良いという人が多かったが、私も同感である。
 インドネシア映画では、デジタル修復をしたウスマル・イスマイル監督の『戒厳令のあとで』(1954)が深い余韻を残す傑作であった。イスマイル監督はインドネシアを代表する監督であるが、本作はインドネシア独立戦争の闘士だった主人公が腐敗した戦後社会に対応できない悲劇である。罪のない婦女子を上官の命令で心ならずも殺してしまった主人公の苦悩など、独立運動の負の側面を1954年という早い時期に製作したことが、私にとっては驚きだった。
 東欧でも、1989年にベルリンの壁が崩壊して東欧諸国で共産党独裁が倒れ、自由社会になっても続く腐敗についての映画を、私は数多く見てきた。今回の東京国際映画祭でも、体制変換後の社会問題に切り込む映画を見た。

ブルガリアの官僚制

 『グローリー(Glory/Slava)』(2016)はブルガリアとギリシャの合作で、招待作品の部門で上映された。ブルガリアの官僚制の欺瞞に振り回される善良な庶民と、無神経で図々しい女性の高級官僚が対比される。クリスティナ・グロゼヴァとペタル・ヴァルチャノフの共同監督の前作『ザ・レッスン・授業の代償(The Lesson/Urok)』(2014)は、東京国際映画祭審査員特別賞をはじめ世界で広く認められた。『ザ・レッスン』で金銭的苦境に次々と陥るヒロインの女教師を演じたマルギタ・ゴシェヴァが、今回も運輸省の広報部長役で出演している。私は『ザ・レッスン』をNYのアート系映画館で見た。教室をちょっと離れたすきに盗まれた小銭から始まり、頼りにならない夫の無責任な行動から、家を手放さなければならなくなる危機に陥るヒロインの苦難の展開が見事で感銘を受けたので、今回も楽しみにしていた。
 本作の題名のグローリーとはソ連製の腕時計のブランド名で、主人公の鉄道員ツァンコが父からもらって大事にしているものだ。列車の通過時間などが重要になるので鉄道員にとって時間厳守は必須で、慎ましい小屋の自宅で、彼が腕時計を几帳面にラジオの時刻と合わす場面から映画が始まる。そして、ある日、線路の点検中に大量の札の入った袋を見つけ、実直な彼は警察にそれを届ける。
 映画のもう一人の主役は運輸省の広報部長の女性ユリアである。四六時中携帯電話で仕事の指示を出したり受けたりしている彼女は、落ち着いて何かできる心境でも状態でもないのだが、人工授精のための施術を受けている際中で、さらにストレスが増えている。しかし年齢も年齢なので、子作りもこれが最後のチャンスとばかり個人生活と仕事を両立させようとしている女性プロフェッショナルである。
 運輸省はメディアからの批判にさらされている。物資の横流しなどいろいろ問題が起こっていることに無策であり、一部の高級官僚が特権を享受しているというどこの国にもありそうなことながら、政府を目の敵にして嗅ぎ回っているジャーナリストがいる。ユリアはイメージ回復のためにこの事件を利用しようと図り、ツァンコを表彰することにする。運輸大臣による表彰式で腕時計をツァンコにあげることになっていたので、ユリアは式の直前にツァンコのつけていた腕時計を有無を言わさずにはずさせるが、式の後に彼の腕時計をなくしたことが判明する。忙しいユリアにとって彼の腕時計、そして末端の労働者などどうでもよいわけで、彼がなぜこれにこだわるのか理解せず、誠実に応対しようとしない。
 ツァンコは表彰式で大臣に鉄道現場での不正について訴えようとするが相手にされない。家に戻ってもらった時計を使ってみると、安物なので時刻が遅れることを発見して怒り心頭に発す。運輸省へ抗議に行っても入り口で追い返されるツァンコは、運輸省の腐敗問題を追うジャーナリストに話しかけられ、テレビで自分の体験を話すことを頼まれる。しかしこのジャーナリストもツァンコを人間として敬意を持って接するよりも、自分の手柄の道具として見ているのだ。
 忙しすぎるユリアを手伝うことでこの事件に巻き込まれる彼女の夫がいくらか人間的な人物で、彼女に正直に対応するように助言するものの、上昇志向にとりつかれた妻の耳には入らない。彼女のどこもかしこも手一杯の状況は、医師の指示したように定期的にお腹に注射することを職場で実施しなければならなくなることで加速度化する。事務所を訪ねに来た夫にもそれを手伝わせて、会議室に掲げられている国旗の陰で奮闘するその彼女の一挙一動がおかしいという風刺たっぷりな場面にもなる。そしてツァンコが大切な時計をどうやって取り戻すことができるのかが、サスペンスとして展開する。それとともに、押しつぶされた人間の尊厳が哀しく描かれる。

ルーマニアのメデイア問題

 ルーマニア映画は、私がNY映画祭で見ていた『シエラネバダ(Sieranevada)』(当コラム(27)を参照)と『フィクサー(The Fixer/Fixeur)』(2016)が出品された。『フィクサー』はルーマニアとフランスの合作で、アドリアン・シタル監督は1971年生まれ。本作は長編3作目で前2作はヴェネツィアとベルリン各映画祭で上映されているから監督としての国際的評価が既に高い。
 フィクサーというのは、メディアの取材の段取りなどのコーディネートをする役割の人をさす。映画の主人公は大手のニュース会社の見習い記者のラドゥで、妻はその組織の職員だ。パリで売春をして逮捕された十代の少女がルーマニアに戻って来たところをフランスのニュース会社が取材に来るのを通訳兼で手伝う。ルーマニアの国境の警備員や、少女が預けられた修道院は取りつく島もなく取材拒否であるが、あらゆるコネを使って何とか突破し、少女のインタビューを実現させるまでの彼の手腕が描かれる。はたして取材が可能になるのかが、物語の山である。
 この映画では、どこへ行っても青を基調とした暗い色調で、曇りの日ばかりである。どこか鬱積した雰囲気が続くのだ。活気のない地方の街の少女の家族を訪れた取材者たちは、子沢山でシングルマザーの母が疲れ果て子供を十分に顧みていないことを見て心を痛める。家出した少女はヒモに騙されてパリの売春組織に売り飛ばされたのだ。取材者たちはこのような悲劇を再び引き起こさないように当事者の少女のインタビューが報道として必要だと関係者たちに主張するのだが、まだ中学生の若い被害者を見たいというスキャンダル性も確かに視聴者側に存在することを認識している。
 シタル監督が主演のトゥドル・アロン・イストドルとともに参加した上映後の質疑応答の前半だけに私は出席した。本作は撮影監督アドリアン・セイリシュテアヌが実際にフィクサーの仕事をしていて見聞きしたことを基に、その妻の脚本家クラウデイア・セイリシュテアヌやルーマニアを代表する脚本家のラズヴァン・ラドゥレスクの協力を得ながら、監督も含めて4名が討論を繰り返しての合作した脚本だそうだ。メディアが報道の名の下に取材先の人々を虐待することについて考察したが、自分も監督として芸術の名の下に人々を虐待しているのではないかという疑問が根底にあるという。映画はラドゥの義理の息子マテイの水泳教室の場面から始まるが、なぜマテイの水泳の場面が多いのかという観客からの質問に監督は、ラドゥが職業と私生活をどのように両立させるか、またマテイに過大な期待を抱いてマテイを追い込んだことをラドゥが気づいて反省するが、それは職業を通じて自分が気づかないうちに若い被害者を虐待していたという事実を学んだという意味だと述べた。このような思索的映画は、日本映画の中にはなかなか見つけられない。本作はコンペテイション部門に出品されていたが、残念ながら無冠で終わった。

無気力なクロアチアの街の生活

 クロアチアのアドリア海沿岸は、ダルマチア地方と呼ばれる有名な観光地である。その地方の街を舞台にした『私に構わないで(Quit Staring at My Plate/Ne gledaj mi u pijat)』(2016)は、クロアチアとデンマークの合作。ハナ・ユシッチ監督は1983年生まれで、本作が長編監督デビュー作。新人のミア・ペトリチェヴィッチが病院のラボで働くマリアナを演ずる。
 マリアナの生活は八方塞がりだ。暴君の父、怠け者の母、軽い知的障害を患う兄と狭いアパートに住み、父の一挙一動に家族はびくびくしている。この辺りの街は風光明媚のはずだが景観は最後の方にちらっと出てくるだけで、映画のほとんどの場面は、壁が薄汚れた彼らのアパートや、うらぶれた街の風景が映し出される。近所では朝から人々が用もなくそこかしこに集まって座り、道行く人々をながめている。
 アパートや彼女の勤務先のラボの中はクローズアップで捕らえられる人々の顔のイメージが多用され、否が応でも閉塞感が増すばかりである。ラボでもズル休みをしたりやる気のない同僚ばかりで、仕事先もぱっとしない雰囲気だ。昼になると兄が母の作ったあまりおいしそうでないお弁当を届けてくるので、マリアナはそれを外に座って一人で食べる。ある日彼女がお弁当を捨てて近くの店でこれまたあまりおいしそうではないサンドイッチを買うのも、終わるともなく続く退屈な日常生活への小さな抵抗であろう。
 父が倒れ、家族はいくらかの自由を得て3人で海に遊びに行ったりするが、映画の色調は晴れの日でもあくまでくすんだ印象で、開放感がない。行きずりの男たちと無感情に身体を重ねたマリアナは、都会へ出て行く決心をするものの、途中で戻ってくるところで映画は終わる。
 コンペテイション部門に出たこの作品は、とても評価が高く、ユシッチ監督は最優秀監督賞を受賞した。私自身はこのようにうつうつした出口のない映画は苦手だが、不思議と人物が記憶に残るのは、やはりある種の演出力が監督にあったからだろう。

チェコのモンスター・ティーチャー

 チェコとスロヴァキアの合作『ザ・ティーチャー(The Teacher/Ucitelka)』(2016)のヤン・フジェイエク監督は1967年生まれで チェコを代表する監督の一人。共産党時代の反体制知識人をめぐる人々が亡命先のスウエーデンで日本人の画家と交流する様を描く『カワサキの薔薇(Kawasakiho ruze/Kawasaki’s Rose)』(2009)を私はNYのアート系映画館で見ている。
 『ザ・ティーチャー』も招待作品のセクションに出品されていたが、前述『グローリー』と並んで見応え十分であった。舞台は1984年の共産党独裁時代に設定され、思うまま権力を行使した人間に苦しめられる庶民の苦悩がリアルに描かれている。ヒロインのマリア(スザナ・マウレーリ)は小学校の教師だ。映画は雪の降る夜の小学校校舎を捕らえたショットから始まり、それが次第に秋の新学期の小学校の情景へと移る。元気のよいマリア先生が、自己紹介でロシア語とスロヴェニア語を教えクラスの担任をすると言う。当時チェコ・スロヴァキアに対して支配的関係にあったソ連の言葉ロシア語を教えるのは当然として、人口200万人のスロヴェニアの言語であるスロヴェニア語を教えるというのは、ちょっと意外であった。地理的近隣諸国の言葉を学ぶことがよしとされていたのかもしれない。
 マリア先生は出席簿の名前をよび、各生徒に親の職業を聞いてメモをとる。食料品店を経営している親なら電話をして無料で食料を配達してもらう。美容師の親には無料で髪のセットをしてもらう。修理屋には壊れた電気スタンドの修理を、飛行場勤務の親にはマリアのモスクワに住む妹にケーキの密輸を頼む。当初はお金を払うふりをするが、当然親たちはお金を受け取らないことをマリアは初めから想定している。
 飛行場勤務の父親は経理担当なので、密輸を頼まれてもそう簡単に事は運ばない。妻が先生のために作ったケーキが入った箱を何とか機内勤務の担当者に託そうとするがどうしてもできず、物陰で自分が食べてしまう。マリアの願いを丁重に断るとその娘が報復される。授業中は手を上げても無視され、成績も不当に低くつけられ、クラスの大半の子供達のいじめの対象となってしまう。彼女に加担するのが元ボクサーで修理屋をしている父親の息子と、母親の天文学者がスウエーデンに亡命したため失職して窓ガラス拭きをしている、同じく天文学者の父を持つ絵の上手い男の子の2人だけなのだ。しかも未亡人のマリアは天文学者の父に勝手に恋愛感情を抱いて、家まで押しかける。
 校長もマリアの行動には辟易しているが、マリアはこの地区の共産党支部長で妹がモスクワに住み、亡くなった夫は軍人だったいう有力者なので、簡単に手が出せない。校長はもう一人の女教師と秘策を練って父兄会を開き、マリアの問題を検討する。しかし飛行場勤務の父親夫妻と修理屋の父親夫妻以外は、どの親も抗議の嘆願書に署名をせずにマリアを弁護する。この二組の両親は子供を転校させるほかなく、マリアの非情な独裁が続くのだろうかと見ていて私は絶望的気分になってきた。しかし勇気を出してこの二組の両親に加担する親たちが出てくる過程が、スリル満点である。この父兄会が雪の中の夜に開かれていて、映画の最初のイメージに戻る。署名をしないことにして一度は外に出た親が、思い直して教室に戻るのだが、寒々とした雪の夜という設定が効果的だ。倫理観の欠如した横暴な教師が、子供を人質にして不当な要求を親に求め、自分の気に入らない結果になれば子供に報復して子供の心を踏みにじる。「教育」であるはずの場の恐ろしい実態が寒々と描かれる。
 本作も、脚本家のペトル・ヤルホフスキーが子供時代に実際に体験した出来事を基にしているという。世で独裁制が続くのは、独裁者と仲良くして甘い汁を吸おうとする人々がいるからだということを思い起こさせるように、マリア先生と仲良くしている母親たちがいるのが悲しい。1989年にチェコ・スロヴァキアの体制が民主化されて、1993年にチェコとスロヴァキアという2つの共和国となり、チェコの初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの肖像写真が壁に飾られた小学校の新学期、マリア先生が上機嫌で教室に入ってくる。そして彼女が「英語とスロヴェニア語を教えてこのクラスを担任する」と自己紹介し、順番に生徒の親の職業を聞いてメモ帳に書き込む場面でこの映画は終わる。ロシア語から英語に担当が変わったのは、これから西欧社会に適応する若い世代を教育するということだ。マリアの世の中の変化への適応能力に感嘆する一方で、彼女の生み出す悪は体制が変わっても続くという現実には、笑いながらも恐怖感を抱かずにはいられない。安易な勧善懲悪のハッピーエンドにならないところが、含蓄に富んでいると感じた。