(27)今年もNY映画祭で東欧を見る
[2016/11/18]

 毎年9月末から10月にかけて開催されるNY映画祭は、今年(2016)で54回目。年々大規模になりとてもすべてを追いきれないが、世界で話題の映画を選りすぐって25本上映するメイン部門で、ルーマニア映画が2本上映された。さらに、ルーマニアを舞台にしたドイツ映画もメイン部門にあった。

社会の腐敗を描く

 日本でも公開された『4ヶ月、3週と2日』(07)や『汚れなき祈り』(12)で国際的に著名なクリスチャン・ムンジウの新作は『卒業Graduation/Bacalaureat』だ。ルーマニアの現代社会にはびこる腐敗の現状を凝視したもので、常に揺れる手持ちカメラの映像、曇りの日や夜が多く青を基調とした寒色に支配された暗い雰囲気や閉塞感がスリラーとなっていくストーリーの緊迫感を支えるのは、前2作に共通するものだ。
 本作は殺風景なコンクリートの住宅の手前で地面に穴が掘られている場面から始まる。そのアパートに住む医師ロメロ(アドリアン・ティティエニ)が主人公で、すぐ近くに山が見えるトランシルヴァニア地方の都市、クルージが舞台であることが次第に明らかになる。
 ロメロ夫妻はルーマニアの独裁制が崩壊後、希望を抱いて1991年に海外から故国に戻ったが、変わらない社会に直面して今では帰ったことを後悔している。一人娘エリザ(マリア=ヴィクトリア・ドラガス)にはより大きな機会を与えたい一心で、エリザを英国に留学させることを念じている。しかし彼女が大切な卒業試験の前日に暴行未遂に遭って動揺したため、試験の結果が心配で、うまく卒業できるよう裏工作をロメロが講じる。映画はそれがばれるかどうかのスリラーとなっていく。
 ロメロの妻マグダは図書館に勤務しているが、自分には不相応なつまらない仕事をさせられているが、どうすることできないと諦めている様子だ。エリザの教師のサンドラはシングル・マザーで言語未発達の5歳ぐらいの息子マティと二人暮らしだ。ロメロと愛人関係になったものの、ロメロの態度が煮え切らないし、彼は今娘のエリザの卒業のことで頭がいっぱいなので、サンドラは次第にイライラがつのってくる。
 エリザはボーイフレンドがいるし、大好きな祖母からも離れたくないので、英国留学にはあまり興味がない。こうして登場人物すべてが何か不満を抱えて自分は幸福ではないと感じている。しかも、周囲の人々はエリザの暴行未遂を見て見ぬ振りをする心寒い行動をとる。ロメロが娘の試験結果の上乗せを警察署長や副市長を通じて試験委員長にその工作を頼むと、それぞれが見返りを要求し自分は誰々に貸しがあるからその貸しの分でこれこれのことを頼んでも大丈夫だ、と賄賂はすべて計量化されていく。ロメロの行き先々では電話が絶え間なく鳴り、また誰かが何か頼みごとをしてきたのかと思わせ、不安が増幅する。
 また彼のアパートの窓に石が投げ入れらたり、車のワイパーが何者かによっていたずらをされたり、車のフロントガラスに石が投げられたりと不審なことが続くがこれらを行っている者の正体がわからないだけに不気味である。ある場面では夜、ロメロがバスの窓から誰かを見て乗っていたバスを降りて追跡するが、この誰かも観客にはわからない。不正を行いながら不安に苛まれるロメロの心境がこうして次々と映像表現されていることが、この映画の評価に繋がっているのであろう。

見事な室内劇

 『シエラネヴァダ(Sieranevada)』は、ムンジウと並ぶルーマニアの著名な監督クリステイ・プイウの新作である。173分の上映時間に私は構えたが、意外と一気に見てしまった。映画は車が行き交う都会の道端から始まる。車から降りた中年男女が荷物を持って近くのアパートの入り口から中に入るが、カメラは車道に据えられたままである。夫が車に戻り、妻が幼い娘と出てきて歩道で待つ。そのうちおばあちゃんがたたんだ乳母車を持って出てきて夫婦に押し付け、幼い娘を連れて行く。
 次のシーンは車の中の先ほどの男女で、渋滞なので二人とも苛ついて些細なことで言い争いを続ける。それから別のアパートへ画面が移るが、この後はこのアパート内にほぼ舞台は限られる。台所を中心に登場人物が部屋から部屋へ動き、カメラはそれを追い絶え間なく水平に動く。
 このアパートに集う人々の関係が次第にわかってくる。主人公のラリーは医者で、車の中でいさかいを起こしていたのが妻だ。ラリーの妹カミとその夫ガビ、ラリーの母とその妹オフェリア、ラリーの従弟のセビ、ラリーの弟のレルなどの登場人物が次々と現れる。彼らはラリーの父の死後40日目の弔いに集まっているが、僧侶がなかなか来ないので式が執行できず、その後の食事も始められない。
 セビは数日前に起こったパリのムスリム過激派テロから始まり、2001年9月11日のニューヨークの同時多発テロが仕組まれたしか思えない不審な点が多いと論じているのだが、居間の男たちは誰も同調しない。台所では共産党時代を懐かしむ亡父の友人の女性とそれを賞賛できないカミが大口論している。そのうちにオフェリアの大学生の娘がクロアチア人の女友達を連れて現れるが、その友人は酔っ払っていて眠り込んでしまい、皆のひんしゅくを買う。オフェリアの不仲の夫が現れると早速夫婦の間で喧嘩が始まる。最後にラリーが車の中で妻に話す子供時代の父の思い出で観客はしんみりする。
 映画を通じてあまりに台詞が多いので、字幕を読むのが大変だ。それでも会場の大半を占めた試写での外国人観客が結構笑っていたのは、台詞を完全に把握できなくても状況の面白さが受けたのであろう。各々の状況を文字で再現するとそれほど面白くないが、台詞のタイミングや俳優の顔の表情が絶妙なのだ。場所を限った室内劇だけに、観客を退屈させない技量がこの映画にはあった。

ドイツから見たルーマニア

 ドイツの女性監督マレン・アーデの喜劇『トニー・エルドマン(Toni Erdmann)』は、映画のほとんどがルーマニアの首都ブカレストが舞台。初老のヒッピー風の父親(ぺーター・シモニシェク)は四六時中冗談を言い続けて周囲を困惑させている。企業の出世コースをまっしぐらに上昇中の娘イネス(サンドラ・ヒューラー)は、ブカレスト駐在。彼女はたまに仕事でドイツに戻っても、携帯電話でしゃべりっぱなしで家族とろくに話もせず、眉毛はいつも120度上がっている。そこでブカレストに戻った娘を予告なしに訪れる父親の起こす騒ぎが続くのだが、この作品も162分という上映時間にもかかわらず全く飽きさせないし、喜劇なので観客は爆笑の連続である。
 イネスのドイツのコンサルト業の会社は、ルーマニアの投資のための顧客の確保で必死で、イネスの頭の中はそのことで一杯だ。そこへ突然現れた父親は迷惑以外何者でもないのだが、やっと帰ったと思った父親が何と、彼女が友人の訪れたレストランに変装して現れる。言葉を失うイネスを前にトニー・エルドマンと自己紹介した父の気迫に押されて、イネスも父をそう呼んで芝居を続ける。
 父はおよそ自分とは水が合わないはずの娘の企業社会にどんどん入り込み、行く先々で騒動を起こしながらも、地元の人々と微笑ましい交流を続けて行く。娘の会社がルーマニアの会社を顧客にした後、その会社の大部分の従業員を解雇してそれをコンサルタント会社の責任に転嫁するという構図が明らかになり、イネスも心を痛めながら仕事を続けることになる。父は視察先の工場で冗談を言ったことから、工員の解雇を引き起こしてしまう。善意が思わぬ転換をしてしまう危うい例だ。父は気を取り直して近くの木陰で用を足そうとしていると、民家の人が親切にトイレを貸してくれる。チップをあげるとリンゴを一袋もらう。そのリンゴを手土産に、パーテイーで会って名刺をもらっていた女性を突然訪ねると、祭日で親戚や友人が集まり卵に絵付けをしたりしている。
 父はそのアパートの廊下で見つけたブルガリアの巨大な怪物のぬいぐるみを着て、イネスのアパードでのパーテイーに登場。イネスも身につけたワンピースの後ろのジッパーに手が届かず、フォークを使ってジッパーを引き上げたものの、やはり気に入らず着替えようとしてそれがうまくいかず、一連の混乱のあと全裸で客を迎えることになる。行きがかり上「裸パーテイー」ということにして、彼女は参加者に服を脱ぐことを強要する。
 ルーマニアは資本主義国の後進国で、先進国ドイツの格好の儲け先という設定だが、ブカレストにはルーマニア人には手の出ない高級品の集まったショッピング・モールがあり、企業で働くプロフェッショナルはほとんどが海外で経営学修士号をとり数カ国語を話し国際感覚を身につけていると、イネスの台詞にあるように、驚くほど欧米の資本主義に足並みを揃えようとしている。この映画では、欧米に追いつけと資本主義にまっしぐらな面も持ちながら、およそ資本主義の進歩には背を向けているホンワカおじさんの居心地よい場所としてのルーマニアがある。
 今回取り上げた3作ともカンヌ映画祭のコンペテイション部門で上映されているので、いずれも現在の世界の先端を行くと認められた映画である。『トニー・エルドマン』はカンヌ映画祭で上映された時に大人気だったそうだが、NY映画祭でも会場を爆笑の渦に巻き込み、私の周囲の批評家たちも今年の映画祭での好きな映画の中に例外なく挙げていた。NY映画祭の始まる前に私は我が家の近くのファーマーズ・マーケットでNY映画祭デイレクターのケント・ジョーンズとばったり会い、彼に今年の映画祭のお勧めを聞いたところ、真っ先に本作を挙げて監督の才能を高く評価していた。映画祭で私は何人かの批評家とこの作品の人気について話したが、いつも鋭い質問を記者会見でしているスペイン人女性は、最近良質なスクリューボール・コメデイ(1930年代から1940年代にかけてハリウッドで流行ったちょっと変なキャラクターをめぐる喜劇)がなかったからではないかと穿った意見を表していた。脚本や父娘のキャラクターがよく練りこんである本作であるが、記者会見でアーデ監督は自分の父がよく冗談を言う人で、自分と父親の関係が投影されているかもしれないと語っていた。私は遅れてきた資本主義国ルーマニアと自由経済の優等生ドイツの対比に本作のサビの真髄を見たのである。