(26)アルバニアン・ナイト
[2016/10/15]

 NYでもあまり見る機会のないアルバニア映画の上映会へ行った。
 会場はマンハッタンのミッドタウンの劇場街にある「プロデューザー・クラブ」で、入り口は狭く階段を上がると2階にバーがあり、そこで入場料を払うと皆飲みながらお喋りをして上映を待っている。アメリカの独立系映画会社にいた知り合いのシンデイ・ロウエル(映画関係者が留守の間、泊まり込みで猫の世話をしてくれることで有名)や、スペイン人のジャーナリストで実験映画作家のモニカ・サヴィロン、NY州芸術基金映画部門のデイレクターを務めた後、西海岸のカリフォルニア州立大学バークレー校で教えているルビー・リッチに会った。そのルビーがアメリカの老舗映画雑誌『Film Quarterly』の編集を一緒にしている仲間だと言って、今日の上映会の主催団体アルバニアン・シネマ・プロジェクト (Albanian Cinema Project,詳細はこちら) のレジナ・ロンゴ (Regina Longo)を紹介してくれた。

 いつ始まるのかなあと心配になってきたところで、みんなで3階の劇場に移動。まずレジナの挨拶があった。そしてこれから見る1977年の映画『トムカとともだち(Tomka and His Friends/Tomka Dhe Shoket e Tij)』に出演しているヘロイン・ムタファライ(Heroin Mutafaraj)が登壇。彼は本作の主役の少年4人の1人で、本作が出演2作目だそうだ。ヘロインは英語で結構絶え間なく喋り続け、会場の多くを占めていると思われるアルバニア人の爆笑を買っていたが、私には何が可笑しいのかよくわからなかった。ただ最初に「今日ここに来ている人はラッキーではないですね。レイバー・デイ(毎年9月最初の月曜日の祝日)のロング・ウイークエンドにどこにも行けなくてNYに残っている人たちだから」と言って皆が大笑いしたのには、私も少し笑った。
 その後ヘロインが観客の中に座っていた自分の娘を紹介し、高校生ぐらいの可愛いお嬢さんが舞台に上がると、舞台にしつらえてあったピアノを弾きながらアルバニア民謡のような歌を歌った。大拍手の後、ヘロインが今度はクラリネットを持った友人の男性を舞台に呼び、そのクラリネットの伴奏付きで有名なアルバニアの詩を朗読、まさにどこかの家の居間の集まりのようなアルバニアの夜である。
 そして映画『トムカとともだち』が始まった。デジタル上映、英語字幕付きである。モノクロ画面で、子犬を引っ張ったり抱えたりしながら走る8歳から10歳ぐらいの4人の少年の姿に音楽とクレジットが被る。この4人が行き着いたのは見晴らしのよい砦である。洞穴の中に手榴弾や銃弾を見つけて興奮する少年たちは、そこでイタリアのパルチザン兵と出会う。そのうち少年たちはドイツ軍の戦車やトラックの大群が街に向かうのを砦の上から見て、このパルチザン兵を匿うことにする。第二次世界大戦中、イタリアがまずアルバニア付近を占領するが、降伏後ほどなくドイツ軍が今度は占領軍としてやってきたことは、クロアチアやスロヴェニアやギリシアの映画でもよく描かれていたように思う。
 本作は、第二次世界大戦後盛んに旧社会主義諸国で映画製作されたナチス・ドイツ軍に対するパルチザンの活躍を描く作品と同様のテーマだが、子供たちも大人たちを助けてパルチザン戦で勇敢に戦ったという物語である。しかしがんじがらめの公式主義でコチコチになっているわけではなく、時にはユーモアも交えて観客の笑いを引き出しながら進む。ドイツ軍がこの川べりの街を占領すると、子供たちの遊び場であった広場がまず接収されてドイツ軍のテントや戦車やトラックが置かれる陣地となる。遊び場を失った子供たちという視点から描かれる点、多分子供の観客でも理解できるように作ってあるが、子供も戦争に参加して祖国を守るべきであるというテーマは明らかに見てとれる。例えば、子供達も「ファシズムに死を! 人民に自由を!」という標語を自明の如くパルチザン側の大人とともに発するし、ドイツ軍が拡声器でドイツ語の歌曲を流すと、それに対抗して子供たちは反ファシズムの歌詞のついた歌を唱和しながら集団で民族舞踊のステップを踏み始めるのだ。私はいつこれがドイツ兵に見つかって子供達が小突かれるかけちらされるか射殺されるかと気が気ではなかったが、さすがに映画の中の出来事であるから、最後までしっかり踊りと歌が披露された。
 ドイツ軍は夜中に銃を持ってずかずかと人々の家に入り、家を焼き討ちしたり、パルチザン容疑者を連れ去る。少年トムカの家では父がパルチザンで、夜こっそりと訪ねに来る仲間がいる。母も近所の主婦とともに山の中に隠れているパルチザンのための衣類を集めて送る作業をしている。こうした両親の行動が完全に理解できないかもしれないが、トムカは大人たちの行動をこっそり覗いては自分の家族や近所の人々がドイツ軍の侵略者と戦っているということは理解している。また戦火の犠牲となったらしい人々の家財道具を叩き売りにする商人が街の広場に来ると、良識ある人々は顔をしかめる。しかしその中で貪欲な男がその商品をたくさん買い込む様子が、子供の視点からスチール写真の積み重ねで表現される。子供心にそれは倫理的に許されないことだという感じたトムカは、強欲男の荷馬車を傾ける仕掛けを施して、人々に拍手喝采される。
 トムカたちが可愛がっている犬は小さくて白と黒が混じっている。子供たちはこの犬ヴァスカと一心同体だ。ヴァスカと対比されるのが、ドイツ軍が子供たちを追っ払うために放つ獰猛で黒一色の大きな犬ゴフである。二匹の犬は、単なる「犬」と呼ばれるのではなく犬の名前が連発されるのも、犬への思い入れを観客に誘発させるためだろう。パルチザンたちはドイツ軍陣地に近くの川べりに入り口があるトンネルから入り込み、敵陣地を爆破することを計画するが、警備犬ゴフの存在が邪魔になる。トムカたちはパルチザンの青年から頼まれて木に登ってドイツ軍陣地の戦車やトラックの数を教え、ゴフを誘き出して毒だんごを食べさせる。
 観客をハラハラドキドキさせながら、パルチザン側は計画通り夜更けにトンネルに忍び込み、ドイツ軍陣地に装置を仕掛けて爆破に成功すると、街の家々の窓の明かりが次々とついていくところで終わる。この余韻もなかなか効果的である。
 上映後に再びヘロインとレジナが登場し、観客と質疑応答となった。本作のストーリーは1943年という設定で、アルバニア中南部の古い街ベラトで撮影された。8月だったので連日暑くて大変だったとヘロインが体験談を話す。なぜ夏なのかという質問に二人は、ロケ撮影がほとんどなので日照時間が長く撮影時間がたっぷり取れるということ、また子役が多いので夏休み中という理由もあったという答えだった。ヘロインの母が時々心配してロケ地を訪ね、毎日何を食べているのか聞くと、子供たちがお米とヨーグルトと答え、それにびっくりして製作者に抗議。というのも会計担当がお金をくすねて飲み代に使っていたからだそうだ。それ以来肉が食べられるようになったとヘロインが言って、会場は大笑いとなった。
 共演の子役たちとまだ交流があるのか聞かれて、ヘロインは時々皆と連絡を取り合っていると答えた。フロリダやコネチカットに移り住んだ人もいるが、アルバニアの首都チラナの小学校校長をしている人もいるそうだ。ヘロインは1991年にイタリアに移り、その後アメリカに来て舞台や映画の俳優をしている。本作のストーリーはヘロインの父の世代が実際に体験したことがベースになっていて、ヘロインの祖父は、反ファシズム活動のため収容所で亡くなっているそうだ。
 本作にはドイツ軍陣地を上からなめるようにクレーン撮影も行われ、ドイツ軍兵士役のエキストラも多く、大作に思えた。旧社会主義国ではどこも反独パルチザン映画が重要なジャンルだが、本作はそれに子供たちを主役にした要素が加わっている。それについて質問させていただいた。確かにこれは1977年製作当時、年間7本ぐらい作られていたアルバニア映画の中では大作である。第二次世界大戦の戦いとオスマン・トルコに対する反乱が、アルバニア映画にとってのアクション映画のジャンルとなるそうだ。アルバニアの映画製作は国家の管理の下にあったが、本作では軍隊も動員された大予算映画である。そしてロケ撮影の現地の人々もエキストラに参加し、撮影スタッフは総勢40〜50人いたそうだ。
 監督はジャンフィセ・ケコ(Xhanfise Keko, 1928-2007)というアルバニア映画界唯一の女性監督で、子供映画を得意として生涯8本ほど監督作品があるそうだ。前述アルバニアン・シネマ・プロジェクトのサイトによれば、ケコはモスクワでドキュメンタリー製作を学び、1952年に24歳でドキュメンタリー監督としてデビュー、数多くのドキュメンタリーを監督した後、1974年より長編劇映画も作るようになった。自宅に子役の子供たちを招いて彼らの行動を観察し、各々の性格に合った役を振り当てたそうだ。
 人口200万人ほどのアルバニアでは、テレビが普及していなかったので映画は主要な娯楽で年間平均2000万人の観客数を誇り、ケコ監督の映画も広く見られた。しかしケコは子供映画を主として作っていたので、体制側があまり注意を払っていないジャンルということが幸いし、映画手法の実験もすることができた。例えば『トムカとともだち』の冒頭、少年たちが街路を走る場面では移動撮影を取り入れ、当時の硬直したアルバニア映画とは一線を画す生き生きとした雰囲気を作り出した。
 エンヴェル・ホジャの独裁政権に厚遇されていた映画作家たちは、独裁が倒れた後にはホジャ政権を非難する映画を作ったり、あるいは自分は反体制だったと主張する者が多かったが、ケコは沈黙を守りひっそり自伝を書きながら79歳の生涯を全うした。現在、ケコ監督とその子役たちについてのドキュメンタリーを製作する動きがあるそうだ。
 アルバニア映画の修復をしているレジナの活動では、題材に歴史的文化的意義があるもの、アルバニアで人気があった作品、そして修復可能な比較的保存状態がよいものが選ばれているそうだ。レジナにその後、どのようにこの企画に関わるようになったのか聞いた。彼女はイタリア系とトルコ系の混じったアメリカ人で、アルバニアを侵略した帝国主義の2国に関係し、それに世界で植民地主義をふりかざすアメリカに今、住んでいることを考えると、アルバニアに関わったことも運命的なものを感じ、情熱を注いでいるプロジェクトだそうだ。以前はワシントンDCにあるホロコースト記念博物館の映画アーカイブの仕事を長年していて、その後大学院で映画学博士号を取得した。そろそろ現場に戻りたいと思っていた頃、友人の友人からの電話があったという。
 時は2012年、屋根は水漏れがして壁が崩れ落ちそうになっているアルバニア国立映画アーカイブの建物と、保管している映画の惨状を訴えるものであった。その後、映画を保存しようという動きが国際的支援を求めて広がってきた。ニュース映画やドキュメンタリーの多くを含むアルバニアで製作された400本以上の映画や、アルバニアで上映された外国映画の映画プリント状態の詳細は未だに明らかになっていない。しかしレジナのグループはとりあえず5年で5本の映画の保存をめざし、国際的映画機関の協力を得ながら『トムカとともだち』を含む3本の長編映画と2本の短編の修復保存をした。『トムカとともだち』はアメリカ議会図書館との協力で、またメリーランド州のカラーラブという会社やハンガリー映画アーカイブにも協力を仰ぎ、短編はNY大学映画保存学科の学生により修復保存された。
 レジナのグループはアルバニアに赴き、映画関係者と会って聞き取り調査も始めた。『トムカとともだち』の撮影監督ファルク・バシャは、1970年代に国より派遣されて撮影機材を購入するためフランスと日本に赴いた。日本へは数回訪問しているそうだ。そのため1980年代初頭には、他の社会主義国に比べてアルバニア映画の視覚的見栄えはずっと良かったという。また外国の機材は特撮にも優れていて、独裁者ホジャの覚えが悪くなって粛清された側近をニュース映画の画面から消すことに主に使われていたとバシャは語っていたそうだ。レジナによるアルバニア映画プロジェクトについての論文はこちらで読むことができる。またアルバニアン・シネマ・プロジェクトで復元した映画の一部は、前出アルバニアン・シネマ・プロジェクトのウェブサイトで見ることができる。